この時期のエリート層は、唐で使用する言語を理解できたのでしょうか。

国家の正式な文書はすべて漢文であり、詩文なども漢文で作成しますので、これを読んだり書いたりするのは必須の教養です。なかには漢籍に明るい人物もいて、春秋戦国から魏晋南北朝に至る優れた詩賦を集めた『文選』30巻を、暗誦できた者もいました。しかし、これはいまの日本人の英語理解にも通じるかもしれませんが、実際に会話が巧みな人間は少なかったようです。遣唐使には選りすぐりの優秀な人物が任命されていますが、四等官においても中国語に長けた人物はまれで、中国語と、航海が失敗し漂着した場合を想定し、新羅語や奄美語などの通訳官が同伴していました。人によっては、私的に通訳担当者を付ける随員もあり、天台宗を開いた最澄などは、弟子の義真を通訳として同行させています。最澄空海が入唐したときの遣唐大使藤原葛野麻呂は、秦下嶋麻呂の娘を母に持ち渡来系の血が入っていますが、中国語の会話も漢文の執筆もあまり上手ではなかったらしく、遣唐使船が航路を外れ福州に漂着した際、ことの顛末を文章に認め当地の役所に提出したものの、あまりに悪文であったため身分を疑われる結果になった、という話が残っています。