遣唐使のなかには、政権のなかである程度位も高く重要な位置を占めていた人が含まれている。命の危険を伴う責務に、どうしてそうした人々を派遣する必要があったのか気になった。
たとえ古代とはいえ、外交は儀礼的なものではなく、実質的な面も大きなものです。大宝2年の遣唐使は、統一新羅がその存在感を増す東アジア情勢のなかで、白村江の戦い以降逼塞せざるをえなかった倭=日本が、失地を回復するための大きな役割を持っていました。そのためには、天武・持統朝で行った内政の整備をアピールし、唐や新羅にその政治的・文化的達成度を承認させ、併せてさらなる発展のために、最新の文物を選択・将来しなければなりません。今後の日本の経営にいったい何が必要なのか、唐に溢れる文物のなかからきちんとそれを見極め、持ち帰る見識が必要です。また、授業でもお話ししたように、当時は唐と倭とは断絶状態にあり、国交が回復していませんでした。唐はやはりユーラシア東部第一の大国であり、繰り返しますが、未だ優れた文物を有していました。同国と友好的な関係を結んでいなければ、同地域で有利な外交を行うことは不可能といってよく、大宝2年の遣唐使には、それを遂行する重要な任務が課せられていたのです。先方に侮られない、あるいは礼を失さないためにも、それなりの高い身分と実績、能力を兼ね備えた人材が必要だったのです。