私は世界史選択だったので、異民族の侵入がいろいろな地域であったことを習ってきたのですが、日本列島においても、「日本」の国土の外に住んでいる人たちは、異民族という認識をされていたのか気になりました。

例えば中華王朝の異民族認識は、中原地域を世界の中心とし、文化はそこから周縁へ行き渡るものだという、エスノセントリズムによって成り立っています。それぞれの地域集団のエスニシティがしっかりとあり、その差異・同一性をもって「異民族」の同定が行われているわけではありません。また、中高の教科書レベルの異民族侵入は、どうしても「古代文明」側からの視点で描かれますが、「蛮族」とされた人々の視点からみれば、「帝国」こそが侵略者であった点に注意すべきでしょう。古代日本の場合、例えば北九州の在地の人々が朝鮮諸国にどのような認識を持っていたか考えてみますと、交易その他によって日常的交流があったとすれば、個人レベルでの理解はそれなりに進んでおり、「異なる国の人間」という意識はあっても、排他性はそれほど強くなかったのではないかと思います。朝鮮三国からの集団の流入もかなりあり、二世、三世と世代を重ねて渡来系の氏族を形成してゆくものもありましたので、現在よりも親近性が高かったかもしれません。言葉についても、お互いに一定の会話はできたのではないかと思います。むしろ、九州でも最南部のほうの人々、あるいはヤマト王権の人々のほうが、文化的な相違、心性の面での隔たりは大きかったかもしれません。『日本書紀』継体紀には、北九州で筑紫国造磐井の反乱があったことが記されていますが、磐井は新羅と交流を持っており、ヤマト王権の朝鮮への介入を阻害しようとしたわけです。また、奈良時代にも、やはり北九州で反乱を起こした藤原広嗣が、朝廷の軍に攻められて新羅へ逃げようとしています。常に「仮想敵であった」こととも関連しますが、これらの選択の根底には、北九州地域における朝鮮との近しさがあったものと思います。なお、「蝦夷」や「隼人」については、多少の文化的差異をもとに、王権がやはり中華思想的価値観に基づき、蛮族のイメージを固定させようとしたもので、事実と反する記述も多くあると考えます。