多褹・夜久・菴美・度感など、南方の島がなぜ大和に朝貢してきたのか。自分たちを守ってくれる勢力としては、隼人のほうが有力だったのでは?

南島の人びとの朝貢については、『続日本紀』文武3年(699)7月辛未条に、「多褹、夜久、菴美、度感等の人、朝宰に従ひて来たり、方物を貢ず。位を授け、物を賜ふこと各差有り。其れ度感嶋の中国に通ずること、是に於て始まれり」と出てきます。最後の「中国」は、中華と同じ世界の中心という意味で、ここでは倭=日本・ヤマト王権のことです。気になるのは「朝宰」の語で、王権から派遣された使者を意味すると考えられます。これに先立つ1年少し前、『続日本紀』文武2年5月壬寅条には、「務広弐文忌寸博士等八人を南嶋に遣はし、国を覓めしむ。因りて戎器を給ふ」との記事があります。渡来系氏族の最大勢力、西文氏の文忌寸博士ら8人が、使者として南島へ派遣されているのです。これまで王権の文書行政を担ってきた、百済由来の優れた知識・技術を持った人びとです。それに「戎器」、すなわち武器・兵器の携行が許されています。知識・技術と、一方では武力を交渉の道具に用いながら、これら南島の人びとを説得していったのでしょう。隼人との関係においては、ヤマト王権としてはむしろ逆、中国的な遠交近攻策で、隼人を帰順させるために、そのさらに南の南島の人びとへ朝貢を求めたのでしょう。