都城を造営する場所はどのように選ぶのですか。また、完成まではどのくらいかかり、天皇はどの段階で移転するのですか。

藤原京を例に挙げて考えてみます。授業でもお話ししたように、この都は、倭=日本が採用し建設した最初の中国的都城です。これをどこに造営するかという占地の問題も、恐らく中国の方法を受容し整備したものと考えられますが、そうしたことを主要な職務として、天武朝に初めて成立したのが陰陽寮です。天武自身が陰陽五行に詳しかったことはよく知られていますが、彼はのちのいわゆる〈風水〉のような考え方を、土地選定の基準のひとつにしたわけです。これ以降、「三山鎮めをなし、四神図に叶う」地が、陰陽五行的土地選定の常套句となります。一般には、東:青龍=川、南:朱雀=池、西:白虎=大道、北:玄武=山と定式化しますが、これは9〜10世紀に成立したものらしく、平安京に至るまで日本で援用されてはいませんでした。藤原京の段階では、まず基準になる南北道路=上ツ道、中ツ道、東西道路=横大路・山田道が存在したので、それに沿って、飛鳥をそう遠く離れていない場所で、都城の規模を実現できる地域を探したのでしょう。藤原京が未だ「新益京」と呼ばれていた天武天皇11年(682)3月甲午朔以降、『日本書紀』は、さまざまな王族・官僚らが造営予定地を視察に訪れたことを伝えています。ここで注意したいのはミルの用字で、とくに注意したいのはミルの用字で、建築・軍事・文芸などの技能を持った貴族、実際の造営事務を統括する判官・録事・工匠、陰陽・五行の知識に基づき相地をなす陰陽師などの視察者に対応し、「見」「看」「視」「占」が使い分けられているのです。すなわち、天武天皇11年3月甲午朔条では三野王・宮内官大夫に「見」、同13年2月庚辰条では広瀬王・大伴連安麻呂・判官・録事・陰陽師・工匠に「視」「占」、同是日条は(信濃についてだが)三野王・采女臣筑羅らに「看」といった具合です。また、即神表現の対象となる天皇・皇族の場合は「観」す形にほぼ統一されていて(持統天皇4年〈690〉10月壬申条は高市皇子、同4年12月辛酉条・同6年正月戊寅条・同年6月癸巳条は持統)、『周易』上経/賁卦/彖伝の「天文を観ては以て時変を察し、人文を観ては以て天下を化成す」との思想を反映、持統を聖人、宮都をその教化育成が行われる場として意味づけたものと想定されます。視察の場では、即神表現に基づく何らかの儀礼が行われたのでしょう。なお、持統が藤原宮へ遷居したのは同8年(694)、当初の視察から4年目のことで、この頃には少なくとも宮殿はほぼ完成していたと考えられます。