東大寺は、中国でいう石窟寺院を採り入れたという認識で正しいでしょうか。 / 東大寺が、平城京の内部ではなく外京にあるのは、何か意味があるのでしょうか。

石窟寺院、ではありませんね。龍門石窟をモデルとしたのは、あくまで盧舎那大仏の造立についてです。紫香楽で始まった盧舎那仏の造立は、方法こそ石刻/鋳造と異なりますが、都との位置関係、内包する思想など多くの点で、龍門の奉先寺を先蹤としているようです。奉先寺は東西幅・南北幅とも30m以上、うち盧舎那仏座像は高さ17.14m、龍門最大の規模を持ちます。開元10年(722)補刻の「河洛上都龍門之陽大盧舎那像龕記碑」によると、その造立には則天武后の莫大な寄進があったようで、仏像の面貌は武后のそれを写したものともいわれます。日本の仏教国家建設における光明皇后の役割を考えても、両者の比較は意味がありそうです。東大寺のほうは、確かに春日山の金鐘仙房を原型としていますが、こちらは山林の仏堂ではあっても、石窟寺院ではありません。やがて大仏造立を迎えて総国分寺の位置づけを獲得し、東大寺となってゆきます。平城京の外京東端に接続するような東大寺の位置は、まず同地が平城京建設段階から山林修行の地であり、多くの仏堂を有したこと(それらが、のちの二月堂や三月堂に繋がってゆきます)、大仏の鋳造は周囲の地形改変を伴う大事業であったため、京内での実施は不可能であったことなどに起因します。そしてもうひとつ、かつて京大で教鞭を執り、東大寺のすぐそばに住んだ古代史家・岸俊男は、東大寺に接続する平城京の二条大路が、中国・西域を経て天竺に連なる、「仏教東漸の道」と考えられたからではないか、と指摘しています。『日本書紀』の仏教公伝記事においても、釈迦が自分の教えは東に伝わってゆくと述べた、『大般若経』難聞功徳品からの引用があります。すなわち、東漸の行き着いた終着点が東大寺である、との位置づけです。実証はできていない説ですが、重要な視角と思います。