平安の日記は文学というイメージが強かったが、最初の頃に書かれていた日記は、のちの子孫が参考資料として読めるようにしたもの、と聞いて驚いた。

平安時代に書かれた日記には、男性日記と女性日記があります。後者の方がいわゆる女流文学で、『蜻蛉日記』『紫式部日記』『更級日記』など。こちらは日記といっても、日次記のように毎日書き継いでいったというよりは、メモ的なものをもとにある時期に再構成したものです。主に、かなで筆記されています。とくに『更級日記』などは、阿弥陀如来から「お前を迎えに来る」との夢告を受けた晩年、自分の人生を振り返って記述したものと考えられています。一方の男性日記は、陰陽寮から毎年支給される具注暦という暦の行間に、その日にあった出来事、とくに朝廷への出仕の雑事、有職故実関連の知識などを書き込み、後世の子孫たちへの資料として残したもの。主に漢文で筆記されています。同じ「日記」と呼ばれていても、この二つは、目的も形式も大きく異なるものです。しかし近年、『枕草子』を書いた清少納言、『紫式部日記』を遺した紫式部などは、それぞれ中宮に配された「記録係」、いわば史官的な役割を果たした女房だったのではないかとの見解が出ています。彼女たちは漢籍の素養があり、漢文も書くことができました。『日本紀』的な世界が正統とされるジェンダー・バイアスのなかにあって、彼女たちはそれを批判しつつ、新しい叙述のあり方を開拓していったとみることもできます。