中国では、周朝、漢代では武帝や景帝といった1文字の名前の皇帝が多く、北魏の時代には太武帝、孝文帝など2文字の皇帝が現れ、隋・唐・宋では1文字に戻り、そののちはまた2文字の皇帝が増えました。これには、民族的な理由などがあるのでしょうか?

これは、中国皇帝に対する一般的な呼び方が、諡号、廟号、そして元号に基づく呼称などを、混乱して用いているための誤解だと思います。中国では、周王朝の時期に、皇帝の業績に応じて臣下が諡号を奉呈する仕組みができあがりました。これは、『逸周書』諡法解などにまとめられており、長く奉呈の基準として使用されました。この制度は、秦始皇帝の時期に一旦廃絶されますが、漢代に皇帝諡号として復活し、祖廟に祀る際の廟号(高祖、太宗、世宗など)と併せて使用されてゆきます。南北朝から隋唐時代にかけては、この皇帝諡号が多くの文字・概念で飾り立てられるようになってゆくため、一般には廟号のほうを用いて表記するようになりました。例えば唐の太宗は廟号であって、皇帝諡号は「文武大聖大広孝皇帝」と長く、北宋真宗などに至っては、「応符稽古神功譲徳文明武定章聖元孝皇帝」との諡号が奉呈されているわけです。日本の聖武天皇の場合も、実は略称であり、正式な諡号は「勝宝感神聖武皇帝」です。明代には、ご承知のとおり一世一元の制が成立、以降は皇帝諡号でも廟号でもなく元号をもって呼称するようになったので、2字の諡号が多くなったように感じるのです。