平安時代において、天皇が大極殿に出御し公卿と政治を行う状態から、天皇が日常的に起居する内裏へ公卿らが出向く状態となり、政治のミウチ化が進む一因となったと学んだ。しかしそもそも、なぜ最初は天皇から出向く形になっていたのだろうか?

飛鳥時代の氏族制政治においては、大王の経営する宮へ、国政を分担する畿内豪族のトップである大夫たちが集い、合議を行うのが通常の形式でした。やがて、中国の宮殿の形式を採り入れつつ、宮が政務の場所として拡充されてゆくと、宮の構造自体が変化し、また宮内に新たな建築物が造られて、機能を分化させてゆきます。このようにして生み出されるのは、大夫たちの政務の場へ天皇が出御する大極殿です。改新後の斉明朝後飛鳥岡本宮、天武朝の飛鳥浄御原宮、後期難波宮などにおいて、次第に整備されていったことが、考古学的に確認されています。ここにおいて、大王=天皇の生活の場と政務の場が、完全に区別されるに至ります。ただしこれらにおいては、未だ大極殿と内裏は接続した建築になっており、中国的都城を採用した藤原宮においても、その状態は維持されます。奈良時代平城宮において、大極殿は、朝政の舞台である長大な朝堂院の北側に取り込まれ、生活の場である内裏は、次第にその後方に分化し退いてゆきます。そのなかで、天皇が内裏を出て大極殿に出御し、政務を執る形式が常態化するのです。しかし、公卿たちのほうも、宮殿の外にある自邸から毎朝出仕してくるので、天皇が公卿たちに妥協しているわけではありません。その後、平安宮で朝堂院/内裏が完全に分離したこともあって、次第に天皇は内裏に引き籠もるようになってゆくわけです。