仏教が日本へ伝来した際、神道を布教、または信仰していた人びとは、仏教を怖れることはなかったのでしょうか。神道が廃れてしまう可能性は充分にあったと思います。(書きかけ)

別のところでも少し書きましたが、『日本書紀』の崇仏論争記事には、神祇信仰を奉じる物部氏、中臣氏が、仏教の国家的奉祀に反対したと書かれています。しかしこれは漢籍の引き写しで、日本が中国王朝と同じ歴史を辿り、廃仏の復興から仏教文化の反映に至ったことを標榜するレトリックです。実際上は、古墳時代に神社の濫觴が認められる頃から、列島社会は大陸由来の神格を多く受け入れ、信仰してきました。ただし、仏教については他の宗教と区別できる教義があり、信仰の形式がありますので、それが大きく強くなることについて、反発や違和感が生じたことは否定できないでしょう。そこで注意したいのが、日本の神仏習合の展開の仕方です。日本で8世紀に始まった神仏習合の形式のうち、アジア固有の形式ともいうべき〈神身離脱〉は、神を輪廻の論理に取り込み、「神は前世の悪業の報いで、苦しみとしての神の身を受けている。これを救済するためには、仏教的作善が必要である」とし、大規模な写経事業や神宮寺の建立、神前読経などの儀式を展開するものです。私見ですが、これは中国の東晋の頃、仏教界に強く影響を持っていた慧遠という僧侶、もしくは彼が指揮した廬山教団によって構築された教説です。注目したいのが、中国ではこれが仏教の教線を拡大するため、競合する地域の民間祠廟などを解体するために用いられましたが、日本では逆に、神祇信仰の活性化に繋がっている点です。この論理がみられる中国の僧伝や説話などでは、作善を通して神は苦しみの身から離脱し、よりよい場所へ転生してゆき、祠廟は尽きるという結末になります。しかし日本の場合は、神が苦しみのせいで起こしていた祟りや災害が止み、神は仏教に帰依し守護神となるという、いわゆる〈護法善神〉に接続した形で現れるのです。そもそも神祇信仰自体、仏教の影響を受けて神社などの常設施設を作ってゆく、最終的には神像なども生み出してゆくことになるので、神祇信仰は仏教がなければいまのような形にならなかった、中世に神祇信仰が神道へ展開するのも仏教の影響である、というのが実態でしょう。