「山越阿弥陀図」のような図像は、現在では「ありがたい」よりも「何だか怖い。不気味だ」と思われることのほうが多い気がします。いつからそのようなイメージに変わったのでしょうか。
ひとつには、主観の問題ですね。多くの仏教徒、とくに日本の浄土宗や浄土真宗の門信徒であれば、「不気味だ」といわれることに憤慨し、「ありがたい」存在と考えるでしょう。しかしもうひとつ、大きな情況としては、近代以降に宗教の価値が排斥されてきたことに原因があります。近代科学主義のもとで、宗教は迷信的なレッテルを貼られ、宗教的行為はすべからく呪術的な行為であるかのように喧伝されてきました。戦後の日本社会においては、国家神道へのアレルギーのために宗教自体が忌避され、いかがわしいもののような印象操作がなされてきたわけです。とくに仏教については、葬儀、すなわち死と結びついたイメージが強調されることになりました。実際、核家族化し地域共同体から遊離した人びとが仏教と接するのは、田舎の法事か、盆や彼岸の墓参り、もしくは肉親・知人の通夜・葬儀に際してということになってしまう。仏壇を持つ家庭でも、本尊は死者と共にそのなかに安置されるイメージであり、死の印象を免れることはできない。不吉です。仏像が「不気味」になってしまったのは、以上のような理由からでしょう。