あいちトリエンナーレの昭和天皇の写真を燃やした作品ですが、人間の写真を燃やしているのを展示するのは、許されないことだと思います。それが天皇であっても、ただの国民であってもです。

これは、ぼくの説明の仕方が悪かったかな、と思います。まずあの作品、嶋田美子「焼かれるべき絵」「焼かれるべき絵:焼いたもの」のあり方ですが、きちんとその内容や意図が報道されていないのではないでしょうか。リンク先を参照してください。この作品の前提には、まず、1986年「富山の美術」展に出品された大浦信行「遠近を抱えて」という作品が、昭和天皇の写真をコラージュしたアートであったために、県議会での言及、右翼団体の抗議などを通じて非公開となり、図録470冊が焼却処分となるという「事件」があったわけです。それに対して嶋田美子が、「天皇の写真のコラージュはダメだが、天皇の写真を焼くのは構わないのか」という問題提起として、天皇の写真を焼却するアートを作成した。今回の「表現の不自由展」は、その2つを併せて展示することで、アートと政治・社会との関係を問おうとしたものです。ぼくの授業での説明は、抵抗の手段が封じられた被抑圧者には、権力者の肖像を焼くくらいの〈蛮行〉は許容されてもいいのではないか、という趣旨でした。もちろん、ぼくも僧侶ですので、いかに写真といえど、生命を軽視するような行いは認めたくありません。しかし、種々の権利が保障された温室のなかにいるわれわれには想像できないような苦しみ、悲しみを抱えた人々の行為としてそれが現れたときに、ぼくらにはそれを否定する権利があるだろうか、と考えてしまうのです。もちろん、今回のアートはそうした意図、そうしたポジションからの発信ではなかったわけですが、そもそも常識的価値や秩序を相対化する役割を持つアートの表現手段として考えた場合には、個別に許容する余地があるのではないでしょうか。