ナショナル・ヒストリーを鵜呑みにするのはよくないと思うのですが、基本的な知識がまずなければ、歴史を考える段階にまで至らないのではないでしょうか。

歴史総合などの思考型歴史教育が始まるのを受けて、高大連携歴史教育研究会などでは、例えば授業で学ぶ必要のある語彙の精選などを行っています。最低限必要と考えられるのはいかなる知識か、ということですね。しかし、ここでよく考えていただきたいのは、そうした基礎的な歴史知識の教育は、ナショナル・ヒストリーという枠組みでしかできないのか、ということです。例えばですが、国家史を相対化した社会の歴史としても、あるいは民衆の歴史として描いても、今後授業で行う環境史で叙述をしても、それは恐らく可能でしょう。国家の変遷を取り扱うにしても、それを支配者の側から描くか、民衆の側から描くか、どちらにも属さない自然環境の側から描くかによって、基礎的な知識を組み込みつつも、まったく違う歴史を考えることは可能なのです。一国史、国家のための歴史の枠組みを柔軟に取り外しつつ、より自由度の高い歴史教育をどう実現してゆくかが重要なのです。