近世・近代の帝国による征服や戦争と、グローバリズムの加速は、どちらが少数民族の社会や文化を抑圧しているのでしょうか。私は後者だと思うのですが。

これも大きな問題です。近年のネオリベラリズムグローバリズムによる侵蝕は、現代思想の世界では、〈みえない帝国〉といわれたりしていますね。かつての帝国が行ってきた分かりやすい暴力、抑圧行為に対して、現在の帝国の支配は目にはみえにくく、意識さえしづらい。例えば民営化の問題にしても、官の独占が一般的であった業種が開放され、民間主体に移管されるのだと期待していると、官によって保証されていた公共性や公正性が失われ、すべてが国際的な大規模資本に掌握されてしまったりする。怖ろしいのは、われわれがそれに抵抗するどころか、知らず知らずのうちに協力させられている、あるいは率先して推進してしまう事態がありうるということです。ジェームズ・スコットやデヴィッド・グレーバーらの人類学者は、少数民族が王権への吸収や国家化を回避するために生み出してきた種々の方法を分析し、現在の問題に立ち向かう術を探しています。ジャーナリストのナオミ・クラインは、災害によってクリアランスされた地域へ国際資本が入り込み、市場を独占してゆくさまを批判的に描き出し、警告しています。清水展『草の根グローバリゼーション』では、フィリピンの少数民族イフガオが、国連や国家のグローバリズムの仕組みを巧みに利用しながら、自らの目的である植林運動を実現してゆくさまを描きます。ネグリやハートが主唱するマルチチュードのような、伝統的共同体や国民国家の制度的繋がりを超えた緩やかなネットワークが、帝国の惨禍に立ち向かうひとつの方法なのでしょう。