ホジホン・サルガンジュイの制度は、「辺民」たちの文化を王朝至上主義に染め上げてゆく機能があったのではないでしょうか。「物質的な豊かさ」と「他者への想像力」は両立しないのでしょうか?

1709年、康煕帝の命令を受けてアムール川下流までを調査したイエズス会士レジス、フリデリ、ジャルトゥたちは、ウスリ川周辺で「ウスリの貴婦人」と呼ばれる女性に会っていますが、彼女は漢語を解し、容姿も所作も周辺の辺民とは異なっていたといいます。サルガンジュイの女性とみていいでしょう。確かに、清王朝はヨーロッパの諸帝国とはまた違った形で、文化的、社会的に辺民たちを変容させてゆく政策を採ったのかもしれません。中国皇帝のそもそもの役割とは、古代以来、蛮族を文明化することにあったわけですから。しかし、ヨーロッパの場合と大きく異なるのは、清王朝を経営していた満州族もまた、かつて中原地域から蔑視されていた蛮族であったという点です。彼らは漢文化に同調しつつも、例えば弁髪を自らの固有の習俗として改めず、また漢人にも薙髪令を出して強要しています。これも一種の同化政策かもしれませんが、漢族と満州族との融和を図った施策である、とも考えられます。強大な漢文化に対する、満州族の矜持ともみなせるでしょう。乾隆帝の命令により、1751年に編纂された『皇清職貢図』には、清への朝貢などの繋がりがあった異民族の容姿、淵源や風俗などが詳細に書き留められています。清はあらゆる周辺諸族を漢文化、あるいは満州文化に塗り込めてゆくのではなく、(もちろん帝国の不利益にならない範囲ででしょうが)一定の多様性を許容していたとみるべきでしょう。