異なる地域でも似たような自然環境だと、似たような伝承や神話が生まれる…といったお話がありましたが、古代の宗教にも適用できる見方でしょうか? 研究してみたいのですが難しいでしょうか?

宗教も大枠的にはひとつの〈物語り〉であり、その発生は自然環境のありようと、それに対する民族集団なり、地域社会なりの関わり方によって決まります。そのパターンは無限にありうるでしょうが、現実にはヒトの思考傾向、身体性によって、意外に限定されてきてしまう。そのなかで、必ずしも伝播ということではなく、地域や時間を超えた類似が発生することは否めません。しかしそれを研究のレベルまで高めてゆくためには、どのような観点から、どのような問題意識をもって進めるか、が重要になってきます。立証するための作業量も、とうぜん厖大になってゆきますね。例えば、昨年『現代思想』臨時増刊「仏教を考える」に寄稿した拙稿では、インド仏教の底辺(アーリア人の侵入以前から展開していたドラヴィダ人アニミズムとの接点)をなすジャータカ=本生経(ドラヴィダ人の伝承や神話を、シャカの前世を語る物語りとして吸収した経典)を史料として扱いました。そのなかには、シカやオウム、猿などを主人公とする語りも多く収められています。うちとくにぼくの目を引いたのは、鹿類が季節に応じて山中/平原などを往還する習性を捉え、待ち伏せして狩猟するという方法が、幾つかの説話のなかに語られていた点です。この狩猟法は、現在でも北アメリカの狩猟民などが実践しており、彼らの神話・信仰(動物の主神話といわれるもの。主要な狩猟対象の獣が、人間と過去に交わした誓約に基づき、毎年〈肉〉を届けてくれるという形式)の原点をなしています。実際、ジャータカに残るシカの物語りも、シカの王が人間の王と契約して群れの鹿を1頭ずつ肉として届けるものの、ついには自らを犠牲にして人間の王に殺生を止めさせるという展開で、仏教による殺生戒の遵守という脚色を取り除けば、動物の主神話の形式にほぼ合致するものでした。このことから、インドでも仏教以前のアニミズム世界には、北アメリカの先住民と類似の動物の主信仰・神話があり、その根底には動物に対する類似の認識と関わり方がある、という点がみえてきたのです。実は、考古学の発掘事例を通じて、列島社会でも新石器時代の段階から、同じような待ち伏せ狩猟が存在したことが想定されています。そして『風土記』や『日本書紀』など古代の文献にも、動物の主神話と同形式の物語りが確認できるのです。大変ですが、やり甲斐はあるのではないかと思いますよ。