今日お話しされていた「踊る猫」のエピソードで、修行した猫が超自然的な力を得るというのが、何かとても気になりました。『100万回死んだ猫』のように、不死になるということでしょうか。あるいは『人間になりたがった猫』のように、人間にグレードアップするための力でしょうか。

授業でもお話ししましたが、猫は、人間にとって、〈文化のなかの野生〉とでもいうべき位置を占めています。日常生活のなかで私たち人間と共生しながら、決してドメスティケートされてず、私たちのありようを根底から覆すような目線、力を秘めている。長生きした猫が妖怪化する猫又、恨みを持って死んだ猫が祟る化け猫、突然姿を消す習性の説明のために作られたと思われる猫岳での修行譚、飼い主の猟師を食い殺そうとするキリヤ(隠し弾)の物語などは、いずれもそうしたイメージを反映したものでしょう。とすると、猫の獲得する〈超自然的な能力〉は、人間の力を上回るもの、自然の力そのもの、といえそうです。しかし実は、そうとばかり総括することのできない要素もあります。文化人類学者の近藤祉秋さんが紹介されている隠岐の世間話(原話は高橋盛孝採集)に、頬被りや前掛けをし、食事の仕度、歌や踊りなど、娘の真似(=化ける)をするようになった猫を山へ捨てると、山からしばらく猫の歌声が聞こえていた、というものがあります。近藤さんはこの事例を、「猫と飼い主とが区別できないほどの連続性を持ったことで、猫は人間から切り離され、山中に隔離される必要があった」と指摘しています。上で述べたような、人間・文化を相対化するベクトルのうちには、「自分が猫に取って代わられるのではないか」という、個別の、生々しい不安が胚胎していたのかもしれません。