当時、使者を派遣する前に、対外情勢などどのように知ることができたのだろうか?

倭の五王による南朝劉宋への朝貢の時代から、倭の外交に渡来系の人びとが関与していたことは、文献によって明らかになっています。当時、朝鮮三国も頻りに劉宋へ使者を派遣し、将軍職を得て南朝の臨時政府としての位置づけを得ようと、外交合戦を繰り広げていました。『宋書』に残る当時の上表文をみると、倭と朝鮮三国のそれとは形式も非常によく似ています。恐らく、同様の知識・技術を持った人びとが、それぞれの王国に加担し活躍していたのでしょう。倭王武の上表文には、司馬という職に就いた曹達という人物が登場しますが、恐らく中国系の渡来人でしょう。倭には、5世紀後半〜6世紀初めにかけて、南北朝の騒乱の圧力で弾き出された多くの民衆の渡来があり、王権によって秦氏や漢氏といった氏族に編成されてゆきました。国家に承認された正式な使節ではないながら、流民等も含め、諸国間を往還していた人びとがいたと考えられます。朝鮮と倭の間には、玄界灘日本海(東海)が横たわっているに過ぎず、壱岐対馬を経由して航海すれば、肉眼でみえる距離に半島が近づいてきます。倭人でありながら百済新羅の官僚になった人びともおり、また島々に拠る海人たちには、海を挟んだ両国の事情に通じている人びともあったでしょう。