いわゆる天武系の歴代天皇によって形成された律令国家において、「聖徳太子」が歴史上重要な人物と位置づけられ、『日本書紀』であのような記述になったのは、律令国家が天皇親政を基礎とする政権だからでしょうか。仏教の文脈における重要性も、多少は加味されていますか?
もちろん、天皇の存在が日本律令国家には不可欠ですので、そもそも厩戸王という「王族」が聖人のモデルに選択されたのは、天皇を中心とする中央集権体制が構想されたことと関係します。しかし、実在の厩戸王が、蘇我氏と連携しながら仏教興隆に貢献したことを考えると、仏教の要素も非常に大きいということになります。しかしその「仏教」が、現在でいう単なる宗教以上に、当時の東アジア外交においてなくてはならないツールであり、また種々の知識・技術を内包する総合科学であったことも、考慮に入れておく必要があります。また、ひとつ可能性として考えておきたいのは、『書紀』に描かれた聖徳太子の存在が、病弱で実績的に不安を残す首皇太子(のちの聖武天皇)を、正当化する布石だったのではないかということです。のちに国分寺創建や盧舎那仏造立に代表される仏教国家建設に邁進する聖武が、どの段階で仏教信仰を強く持っていたかは分かりませんが、その名前自体が『金光明最勝王経』に由来する光明子に示唆されたものかもしれません。いずれにしろ、皇太子時代からの傾向ではあったでしょう。奉仏の皇太子を、聖徳太子信仰の活発化により正当化する目論見は、時代の阿倍皇太子(のちの孝謙・称徳天皇)の際に確認することができます。同時期の光明子に、聖徳太子創建の法隆寺への、盛んな寄進が確認できるのです。いずれにしろ、「聖徳太子」の造詣の背景には、『書紀』編纂時の政治的な情況との密接な関わりが想定できるでしょう。