『呉越春秋』などにみる、母の脇(胸)を割って禹が生まれてくる話は、釈迦の誕生譚と類似している気がしました。何か関係があるのでしょうか?

釈迦が摩耶夫人の脇から生まれてくるという神話は、女性の腋下、もしくは服の袖口が生殖器の暗喩と捉えられていたことともに、女性蔑視に基づく生殖器忌避が関わるという、矛盾した情況から生み出されてきました。また、出産によって母親を苦しませない、という発想も含まれていると考えられます。そもそも、神人が太陽、水、石などから生まれてくるという発想は、人間の性交渉の要素を暗喩としては持ちつつも、人間を超越した存在であることを描き出すためでしょう。禹や啓が石から生まれるそもそもの意味もそこにあり、母親からであっても生殖器から産み落とされるのではないのは、やはり「女性」や「母性」からの超越を含意していると思われます。そういう点では、釈迦の出生と禹の出生はイコールであり、禹のそれが釈迦の形式を受け継いだとも考えられるでしょう。