〈集合的アムネジア〉は、環境問題だけでなく、他の文化的・社会的な事象として確認できるかと思います。詳しく知りたいのですが、何か参考になる文献はありますか。

ひとつ重要な著作として、 アルフレッド・クロスビー『史上最悪のインフルエンザ—忘れられたパンデミック—』(西村秀一訳、みすず書房、2004年〈原著1989〉)があります。いわゆるスペイン風邪(スパニッシュ・インフルエンザ)の大流行をアメリカからの視点で捉えたもので、疾病交換(一地域の風土病であったものが、グローバルな世界的交流の展開で、免疫のない他地域に持ち込まれ大流行すること)の世界史に基づくマクロな視点(国家や社会の対応)、一患者の症状や治癒・致死過程に及ぶミクロな視点の往還から総合的に描き出したものです。後者の克明な描写からは、死者が血の混じった体液に包まれるという最期を迎えたことから、〈グランギニョル的惨状〉との表現を生じました。グランギニョルとは、19世紀末パリの見世物小屋で、そこにかけられた血なまぐさい、こけおどしの芝居から、荒唐無稽、グロテスクなどの代名詞となったものです。クロスビーは、これ以前に環境史の名著『ヨーロッパ帝国主義の謎』を世に問うていますが、それに引き続きパンデミックを、ヒトという動物個体と社会が、自然環境とどのような相互交渉を行ってきたかという、環境史的視点で照射しています。なお「忘却された過去」については、スパニッシュ・インフルエンザの大規模な被害が、その一原因でもある第1次世界大戦の影響(感染症被害の頻発、死に対する麻痺、被害報告の混乱)によって、ほぼ忘却されてしまったことを意味します。第1次世界大戦の死者2000万人ほどに対して、インフルエンザのそれが、5000万から1億に及んだにもかかわらず、です。人間の記憶が、いかに個人固有のものであろうと、常に社会や歴史との関係において成り立っていることを物語る事象です。なお、スパニッシュ・インフルエンザは日本でも25万の死者を出しましたが、教育上の位置づけは、その半分以下の死者数である関東大震災に及びません(もちろん、災害の苛酷さは、数値のみによって決定されるものではないわけですが…)。