環境についての文書が少ない理由として、当時そういう意識がなかったからか、それとも隠したかったからか、どちらですか?

ぼくの話し方が悪くて、誤解を招いたかもしれません。授業でお話ししたのは、まず教科書に記述が少ないこと。これは、環境史という分野への社会的要求が高いにもかかわらず…ということなので、未だ教科書を作成する種々の担い手たちが、旧態依然とした「日本史」の枠組みに囚われているためでしょう。残念なことです。環境破壊などについて言及した史料は、古代から近現代まで、ある程度は存在します。授業で扱った「桃太郎の柴刈り」も、実はその手がかりのひとつなのです(答えは次回)。しかし、あまりにも些細な書かれ方をしていたり、これまで自然環境の歴史について(研究者側の)意識が低かったりしたために、発見されたこなかったものがたくさんあるのです。次回も少し言及しますが、例えば『日本教会史』を著したイエズス会士のジョアン・ロドリゲス。彼は、幼少期に日本へやって来たため、日本語はもちろん日本の習俗にも深い知識を持っていましたが、主に活動の場とした西日本の自然について、「山々には樹木がない」と記しています。