中世末期から近世初期にかけての略奪林業によって破壊された環境は、その後の幕府・各藩の植林政策によって多少なりとも回復した…とのことですが、これは1666年の「諸国山川掟」を指すものでしょうか。

「諸国山川掟」については、果たして全国的な開発抑制策であったのか、淀川水系の治水目的に限定されるものではないか、との指摘がなされています。しかし、明らかにこれを受け継ぐ(授業でも触れた)貞享の禁令や、伐採禁令・土砂流出抑止策が諸藩から打ち出されており、幕末に至る各地のさまざまな努力があったことが分かります。例えば、白神山地の件で言及した陸奥国では、近世の寒冷化を受け、薪炭材の伐採が盛んに行われていました。幕末に平尾櫓仙が『暗門山水観』に描いたように、同地では「流木」と称する習俗(旧暦2月=3月に山中で薪炭材を伐採、春に渓流へ流し、8〜9月に河川で山積みのように回収する)が行われ、18世紀初頭には深刻な荒れ山状態となっていたのです。17世紀後半の弘前藩の藩主となった津軽信政は、薪炭材として重要だからこそ山林を保全しなければならないと考え、過度な伐採を禁止する留山の制度を整えました。こうした施策が採られなければ、近世の環境破壊、災害の情況は、より苛酷なものとなっていたでしょう。