M君・N君の報告についての講評

 M君の発表は、翻刻は概ねよくできていました。ただし、授業でも指摘しましたが、傍訓の「ヲ」「サ」などはやや特別な形をしていますので、読み方に注意してください。また、546頁6行目の「汝」が傍書であること、次行の「令」に付された「イ无」や、547頁2行目の「伏イ…」なる傍書も、情報として書き漏らさないようにしてください。それからレジュメの漢文部分に付された「ー(オンビキ)」ですが、底本では二字以上を一語として読むために付けている記号なので、起こす必要はありません。内容的には、上毛野君の氏族伝承が主なところですが、「烈女伝」的な趣のある面白い物語です。重要なのは、ここでも「先祖の名」が語られていることで、この伝承自体が上毛野君の本辞の一端といえるかも知れません。中世史かたみた場合、中央とは異なる独自の政治基盤を持った東国のありようを考えるうえでも、重要な記事といえるでしょう。
 N君もよく読めていました。550頁2行目の「徙」の処理、同5行目傍書「比良加須祢岐」の「須」など、細かいところで多少の見落としはあったようですが、大過ありませんでしたね。レジュメも、細かくよく調べてあったと思います。内容的に面白いところは、まずは百済大寺・百済大宮の造立ですね。前者は王権が主導して創建した初めての寺院で、後の大官大寺に繋がる画期的な造営事業であり、当時仏教の興隆権を握っていた蘇我氏との関係を考慮すると、乙巳の変に関わる重要な意味がみえてきます。実際、近年の発掘調査によって判明してきた大寺・大宮の位置は、それまで舒明が甘んじて受け入れてきた蘇我氏の勢力範囲の外にあり、この事業自体が蘇我氏への反抗であったとする見解もあるのです。舒明崩御記事の最後には、中大兄=天智のことが「東宮開別皇子」とみえますが、当時の彼は当然皇太子ではなく(皇太子制自体が成立していません)、和風諡号を用いた皇子名も特殊です。『書紀』編纂の時点での文章に相違ありませんが、蘇我政権に対抗する舒明の政治グループを象徴しようとした表現かも知れません。