日本史概説 I(14春)

レポートについて、いろいろ変更が出たので箇条書きにしてまとめておきます。

1)原則として通史だが、扱う範囲は、世界史選択者の場合授業で説明した飛鳥時代まででよい。日本史選択者は、高校で勉強した院政期前までを対象とすること。2)やはり原則として通史だが、何らかの観点で対象を絞る場合、古代がいかなる時代であったのか…

日本史専攻者は、原則として平安時代まで入れてレポートを書きなさいとのことですが、通史の場合もそうしなければいけないのですか。

講義でもお話ししましたが、原則として平安時代をいれながらも、記述としてはかなり削除できると思います。つまり、どの時代をなぜ重視するのか、取捨選択の基準をどう採るのか、そのあたりがきちんと説明できているかどうかをみてみたいのです。3200字程度…

現御神になってゆく天皇に対し、『書紀』に「天神地祇」の言葉があるのは矛盾しているのではないか。

そうですね、天皇はその矛盾をずっと内包してゆきます。高天の原に君臨する天照大神の子孫として、天皇は一般の天神、地祇よりも権威が上だと喧伝されます。しかし実際のところは、神祇信仰の最高の司祭として、天神地祇に国家の安寧や農耕の豊穣を祈念する…

日本の天皇は古代において、権力はなかったのですか。なぜ天皇が必要だったのでしょうか。後の幕府は、なぜ天皇を廃止しなかったのですか。 / 天皇制が長く続いている要因とは何ですか。

講義でお話ししているとおり、権力がないわけではありませんでした。しかしそれは王権を形成する豪族たちの合意によって保障されていましたので、合議の調整・総括に限定されていたというべきでしょう。しかし、古代を通じて天皇のみが執行できる祭祀・儀礼…

古代は女帝が多く輩出されますが、それは男性に都合のよいように利用されるだけだったのでしょうか。それとも独自に政治を行える存在だったのですか。 / 推古は蘇我氏の都合のよい大王として即位させられたと思っていましたが、どうなのでしょうか。

『日本書紀』推古天皇32年(624)冬十月癸卯朔条によると、蘇我馬子は阿倍麻呂らを通じて、蘇我氏の正統性の根拠ともいうべき葛城氏の故地、葛城県を賜与を要求します。それに対し推古は、「大臣は私にとってオヂに当たり、大臣のいうことは何ごとであっても…

中大兄王子がしばらく王位に即けなかったのは、「人殺し」に対する忌避感があったためと聞いたことがありますが、実際はどうなのでしょうか。

これも、近代的価値観に沿った考え方でしょう。これまで講義でお話ししてきた雄略=倭王武や、崇峻、天武=大海人などは、自ら軍陣に身を置いて戦闘を指揮しています。厩戸は即位自体していませんが、物部守屋を討伐する戦いにおいて、四天王を奉じ軍陣を指…

この時代の官僚たちは、どのくらいいたと考えられるのでしょうか。

飛鳥時代は、講義でもお話ししているように官制が不明確であり、氏族制から順次官僚制へ移行している情況であるため、正確な人数は把握できません。参考にしうるのは律令官制に規定されている人数ですが、下級職員も含めた中央官の人数は、8000人余りとなっ…

大化改新を契機に中央集権が進んでゆくなか、結局農民の生活はどのようになっていったのでしょうか。 / 乙巳の変は中央では大きな事件だったでしょうが、地方の人々にはあまり影響がなかったのではないかと思います。

各地域の民衆たちには、生活を保障されるかわりに、共同体の首長へさまざまな形での貢納が要請されていました。それは時代や地域により差異があったと思われますが、中央集権化が進行し税制が全国一律に整備されることで、直接国家による種々の税の賦課が行…

すべての氏族・豪族を排斥して大王家のみに権力が集中する形にするのは、現実的に難しいと思います。舒明の牽制や乙巳の変は、蘇我氏のみに止まらず、各氏族へ向けられたものであった可能性はないでしょうか。

倭国=ヤマト王権は、基本的には、大王家を中心としつつ豪族たちが結集する連合政権ですが、それぞれの豪族が権力闘争、そうして東アジアの危機的な情況のなかで存続をしてゆくためには、大王家に奉仕しその繁栄に貢献しなければならないとの原則はあったは…

改新の詔に示された駅伝・伝馬制では、どのくらいのスピードで情報を伝えることができたのでしょうか。

改新の詔で示された駅伝制の、実際のスピードを検証することはできないのですが、それをさらに整理して敷かれた律令制の飛駅では、平城京・大宰府間(直線距離で約500キロ)を、4日ほどで移動していることが確認されています。これは、『続日本紀』に記載さ…

コホリの表記が「評」から「郡」に変わったのは、そもそもなぜなのでしょうか。 / コホリの話ですが、なぜ50戸なのでしょうか。

コホリの原義は朝鮮語で原野、土地を表す言葉であり、表記も「評」字を用いていました。これが「郡」に変わるのは大宝令制からで、改新制の大評(40里〜31里)・中評(30里〜4里)・小評(3里)の3等級が、大郡(20里〜16里)・上郡(15里〜12里)・中郡…

中大兄らによって、入鹿の首が飛ばされている絵をみたことがあります。あの絵は創作なのでしょうか。

あれは『多武峯縁起絵巻』で、鎌足を祭神とする談山神社(奈良県桜井市)の縁起絵巻です。暦仁2年(1239)、同社の学僧永済が草案縁起絵を作成しており、現存本はこれをもとにした16世紀中頃以前の写本とみられています。内容的には、鎌足の伝記を主体に、…

「大化改新」に関するテレビドラマのなかで、儀式の場に「新羅」「百済」など国名の書かれた石が立っていました。外国人と行う行事には、専用の場所があるのでしょうか。

あれは「版位(へんい)」というもので、朝庭における列座の位置を示すものです。百官が参列する際、律令制においては、漆で位階の書かれた木製の板が置かれます。しかし、平城京からは石製のものが出土しており、ドラマはこれに基づいてたものと思われます。

「大化改新」に関するテレビドラマですが、再現されていた服装などには、どれくらい脚色されているのでしょうか。

藤ノ木古墳からの出土品をはじめ、種々の発掘成果や、最新の研究に基づいていることは確かです。しかし、そのうえで登場人物の個性を際立たせるための潤色はありますね。入鹿の服装や髪型などは、少し突飛かもしれません。

乙巳の変に関する『日本書紀』の記述ですが、「古麻呂」「子麻呂」と別表記で書かれているのは同一人物ですか。表記が異なるのは、何か意味があるのでしょうか。

同一人物です。7世紀は未だ漢字表記が安定していないところもありますので、同一人物の名前の書き方が幾つかのパターンで出てしまいます。しかしそうしたブレによって、「子麻呂」がネマロではなくコマロなのだと分かるのです。

宮廷の俳優たちですが、ふだんは何をしていた人たちなのでしょうか。

年中行事的になされる饗宴や、あるいは外交使節らをもてなす饗応の儀式で、歌舞を披露したものと考えられています。ドラマで登場した「俳優」は、中国から伝来した伎楽のそれでしたが、7世紀にはもっと列島色の濃い芸能が行われていた可能性が高いですね。…

蘇我倉山田石川麻呂の家系は、乙巳の変の後に残りますが、結局は力を失ってしまいます。どうしてそのようになるまで入鹿と対立し、乙巳の変に荷担したのでしょうか。

やはりそもそもの内紛が原因で、倉山田家は本宗家に競合する勢力であったからでしょう。ちなみに石川麻呂の家自体は謀叛の疑いにより滅びてしまいますが、弟の連子の家が石川氏へ改姓し、石足・年足・名足らの俊英を輩出して奈良時代に栄えます。また、やは…

中大兄王子は鎌足によってクーデター勢力に引き入れられたとのことですが、中大兄自身は蘇我氏に対してどのような印象を持っていたのでしょうか。 / 以前に、中大兄は冷酷な人物だったが、鎌足だけは信用していたとの話を聞いたことがあります。実際に『日本書紀』に、そのような記述があるのでしょうか。

中大兄については、鎌足が王族のなかに同志を探していた際、「功名を立つべき哲主」を求めて行き着いた、と書かれています。あくまで改新政府の史観に立って書かれていますので、中大兄を批判する文言はありません。ただし、大王位の競合者である古人大兄や…

中臣鎌足と蘇我入鹿がともに学んでいた塾では、みな何を勉強していたのですか。

『日本書紀』では、この塾は隋へ留学した南淵請安の塾で、「周孔の教」すなわち儒教を講義していたとされています。一方の『藤氏家伝』大織冠伝では、やはり留学をした僧旻の塾で、入鹿や鎌足らが『周易』すなわち『易経』を学んでいたとされています。

以前、蘇我氏に付されている「入鹿」「蝦夷」といった名前は、実名ではなく、『書紀』を記した人の悪意によるものだと聞いたことがありますが、本当でしょうか。

そのような説明が多いのですが、大部分は古代史を一部しか知らない人たちの臆説です。エミシという言葉は、『書紀』のなかでも、もともと「強力な人」との肯定的な意味合いで使用されていました。東国や東北は肥沃な地域で、そこで生活している人々は強力な…

大王の出御している儀式の場で暗殺などを行って、本当に大丈夫だったのでしょうか。

恐らく、儀式の場はクーデターのために用意されたもので、実際には三韓の外交使節などは出席していなかったと考えられます。しかし注意したいのは、『書紀』の記述が極めて物語的であること、宮廷で大王の国土平定の神話などを演じていたと思われる俳優など…

乙巳の変に関して、朝廷内でクーデターについて知っていたのはどれくらいの人たちだったのでしょう。また、失敗した時にどうするか、大王から認可が得られなかったときにどうするかなど、考えられていたのでしょうか。 / クーデターが起きることは、噂などになってはいなかったのでしょうか。

実際のところはどうであったのか分かりませんが、舒明や皇極の側近ともいうべき阿倍氏、財政を統括し宮廷の警衛にもネットワークを持っていた石川麻呂を仲間にした時点で、少なくとも宮廷内においては、入鹿を包囲する布陣が出来上がっていたものと思われま…

境部臣摩理勢など、なぜ政争に敗れたくらいで自殺しなければならなかったのでしょうか。

摩理勢の件は、実はかなり複雑です。蝦夷のリーダーシップに反旗を掲げた彼は、蘇我氏の族人たちが馬子の墓所に集まっているとき、「爰に摩理勢臣、墓所の廬を壊ち、蘇 我の田家に退りて仕へず」との行動に出ます。これは恐らく、古墳時代の首長霊継承祭祀よ…

蘇我本宗家が友好関係を結んでいたのは、朝鮮三国のうちいずれでしょうか。

やはりヤマト王権の外交姿勢として、百済との結びつきが強かったものと思います。馬子の時代には、一時期新羅への征討も計画していますので、これまで干戈を交えてきた、高句麗や新羅との関係は良好ではなかったでしょう。しかし、それらの国々から出身した…

厩戸王は、なぜ大王になれなかったのでしょうか。

このあたりは解釈が分かれます。現象的には、用明・崇峻の事後処理のために大王位に就いた推古が、例外的に長生きをしてしまったからでしょう。当時はまだ、大王が存命中のまま他者に位を譲るということがありませんでした。また、厩戸王が当時の王族として…

『日本書紀』はともかく、平安時代の人々が聖徳太子を潤色した目的は、そもそも何だったのでしょうか。

平安時代に聖徳太子の伝記や種々の言説が創られてゆく背景には、まずは法隆寺、四天王寺など、太子による創建伝承を持っている寺院が、自らの権威を高め教線を拡大するために『書紀』などの記述を援用、さらに肥大化させてゆくという点があります。また仏教…

飛鳥時代の参考文献を先に掲げておきます。

フレーザー、ジェームズ 1976(1919)『旧約聖書のフォークロア』太陽社 2006(1936)『金枝篇―呪術と宗教の研究―』第3部 国書刊行会青木和夫 1977 「藤原鎌足」同『日本古代の政治と人物』吉川弘文館 1992(1962)「日本書紀考証三題」同『日本律令国家論…

この時代の外交はみな「いっぱいいっぱい」の印象を受けますが、天皇が主権を握っていた時代、いちばんそつなく外交をこなしていたのは誰でしょうか。

まず、日本の古代国家では天皇専制の時期がほとんどないので、その都度の天皇が国家意思を代表して外交の舵取りをしている、という事例をほとんどみません。しかし、乙巳の変後の、孝徳・天智・天武は、それなりに外交に口を挟んだのではないかと思われます…

『梁職貢図』は、江戸時代に異国人を扱った瓦版などが作られたように、民間が作ったものですか。それとも、外国人の見分け方、権力を誇示するなどの目的で作られた公文書でしょうか。

講義で話題にした『梁職貢図』は、梁武帝(蕭衍)の第7子蕭繹(後の元帝)が、北朝からの防衛の要である西府の荊州刺史を務めていた時代に作成されたといわれています。蕭繹は学芸に秀でていて多くの蔵書を持ち、梁に来朝する使節の姿も、首都建康での調査…

秦氏についてですが、渡月橋の側の松尾大社に行ったとき、ここも秦氏と関係があると聞きました。中心としていた土地にも近いですが、どのような関わりがあるのでしょうか。

松尾大社は、葛野を本拠とする秦氏本宗家の氏神です。奉祀している神格は、大山咋神と市来嶋姫命の夫婦神。前者は日吉大社の祭神でもある山背地域の山の神で、後者は宗像大社の三女神の一柱です。ともに、秦氏として編成される渡来人が、玄界灘から瀬戸内航…