2016-07-01から1ヶ月間の記事一覧
否定はできませんが、必ずしもそうした理由によるものではありません。例えば奈良時代の孝謙・称徳など、仏教によって性の超越を目指そうとした女帝です。中国唯一の女帝である武則天も、道教を国教としていた唐王朝を中絶させ、仏教を奉じる武周王朝を打ち…
男性/女性だけではなく、レヴィ=ストロースが看破したように、人間の文化は二項対立を基礎に構造化されているのです。AとBが存在したとき、我々はそれがAであること、Bであることを認識するためには、AとBの違いから判断せざるをえません。同質性に…
結局差別というのは、その共同体もしくは社会において、多数もしくは権力の強い側が、少数もしくは力の弱い側を抑圧するなかで生じます。男性差別が成立するためには、男性よりも女性が権力を持つ共同体、社会を想定しなくてはなりません。現在に至るまで、…
それはもちろんそうです。しかし仏教に限らず、多くの創唱宗教は、出現当初は規制の宗教を批判するために、体制と一体化し弱者を差別するそのあり方を攻撃するものの、当の創唱宗教自体が巨大化し護教的色彩を強めてゆくと、一転して弱者を抑圧する側に回っ…
やはり、家父長制の成立と軌一していると思われます。中世から近世にかけて、実態的には強くなっていったはずです。研究史的には、柳田国男の「妹の力」論以来、このような見方が強固に受け継がれていき、ちょうど近代家族の成立に伴って女性への貞節・純潔…
この神がかりの女性/審神者の男性という組み合わせは、『日本書紀』仲哀天皇9年(神功皇后摂政前紀)3月壬申朔条に、神功皇后の事例として登場します。この場面はなかなか緊張感があり、仲哀に祟りを下し死に至らしめた神霊を探し出すために、神功皇后が…
北海道の入江貝塚から発見された縄文の女性の人骨は、幼い頃小児麻痺に罹患したらしく四肢の成長が阻害されていましたが、年齢は思春期後期に到達していました。すなわち、労働できない女性を、同共同体はその年齢になるまで活かし続けていたということです…
憑依とは、動物霊や死霊だけののりうつりを指す用語ではありません。神も含めた、何らかの霊的なものがよりつく現象、すべてが憑依です。もともと、人間によりつく神霊に、「神」だの「死者」だの「動物」だのとレベルを付けるのは、それこそ審神者の発想で…
道教も、在来の習俗や老荘思想、神仙思想などをもとに、江南地域などを中心に発達した創唱宗教です。漢の時代から、身体の修養や病気治療などを目的に展開し、時代・地域によって特色のある形式をみせました。貧苦した民衆の支持を集めたことで革命思想と結…
僧侶は、毎年夏に一箇所に籠り、経典などの読解・研究、精神修養を集中的に行います。これを夏安居といいます。もともとは、インドで雨期に当たる期間は外出しての修行や托鉢ができなかったためとか、小さな虫などが活発に活動する期間は意図せずそれらを殺…
まず第一に、天竺や西域、東南アジアなどから、長い道程を経て中国へ渡ってくるにはそれなりの体力が必要であり、そうしたことの可能な尼が少なかったことがあるでしょう。それゆえに三師七証が揃わず、正式な受戒を達成するのに時間がかかってしまった。ま…
いま、外国語の習得に四苦八苦している我々のことを考えれば、重要なことですね。それゆえに古代においては、僧侶の出自で圧倒的に多いのは渡来系氏族です。氏族内の種々の家系、氏族間のネットワークに、漢語の習得や仏教の研鑽に関するファクターがあり、…
恐らくどこかに同じような事例はあるのでしょうが、残念ながらまだ発見できていません。いくら草木成仏に主体性がないといっても、いくらおしなべて開発に肯定的であるといっても、「大木の秘密」にしろ「樹霊婚姻」にしろ、原型はすべて中国にあります。高…
確かに、まだまだ考えねばならない点があります。しかし、いわゆる大寺院の造営においては、木材としてある程度製材されたものが建築現場に送られてくるので、僧侶が伐採現場に居合わせることはほとんどありません。しかも、近江は大規模な林業地帯で、藤原…
確かに、学問で個人の内的な世界を考察するということは、非常に難しい問題です。「自分でさえ…」ということも、ご指摘のとおり、ありますね。しかし同時に、他から指摘されて初めて自分の気持ちに気づく、といったこともあると思います。個人の心理を研究す…
歴史という物語り=ナラティヴは、詰まるところ、ツール以上でも以下でもありません。世界を把握し、現在と向き合うためのツールです。自分が正対しているさまざまな問題、課題が、どのように生起し、どのような情況にあるのか。将来、それはどうなってゆく…
朝廷の中心にいた貴族たちは、一方で国政を運営するために荘園整理を実施しつつ、一方では自らが巨大な荘園領主でもありました。彼らは地方の荘園の経営と、その収穫を中央へ輸送させるため、在地の有力者層を自らの配下に取り込んでいたわけですが、そのな…
授業でもお話ししましたが、古代の日記は、近代以降の、自分の一日の行動を書き留める、プライヴェートな意味での日記とは性格を異にします。とにかく、未来の自分の子孫たちが宮廷社会で生き残ってゆくために、あわよくば発展してゆくために、先例や有職故…
陰陽道の原型は中国の陰陽五行説で、日本においてはまず都の位置を定める風水の技術として展開しました。その後、天文・暦の知識・技術を集合させ、空間と時間の吉凶を知り、邪なものを斥け幸いを招き入れる科学体系として大成されてゆきます。天文・暦の知…
出家の意味するところは、平安時代を通じて次第に変わってゆきます。宇多天皇、花山天皇の頃には、出家は政治の表舞台から引退を意味していましたので、出家した天皇が直接政治に関与することはありませんでした。しかし、同時期から次第に〈入道〉の概念が…
充分説明する時間がなく、失礼しました。画期は、一条朝の藤原兼家です。当初未だ右大臣に過ぎなかった兼家の上席には、太政大臣頼忠、左大臣源雅信がおり、天皇の外戚であっても太政大臣にはなれませんでした。そこで右大臣を辞職して准三宮の詔を受け、皇…
上で少しお話しした平安時代の政策決定システムに、陣定と呼ばれる合議があります。最終的に天皇の決裁を受けねばならぬ重大案件について、議政官=公卿たちが、位階が低い者から順に見解を述べてゆき、大勢を決して天皇へ裁可を仰ぐ。最終的に天皇の存在を…
まず、授業でもお話ししたように、貴族の合議制の基盤が充分に整い、摂関家という天皇を代行するまとめ役が確立したことが前提です。それゆえに、政治判断、政策決定の場において、天皇の強大な権力を必要とすることが少なくなった。時間がなく説明できませ…
頻繁に交替しているようにみえるかもしれませんが、平安時代は391年、奈良時代は84年で4.6倍の長さがあり、天皇は奈良時代が8名、平安時代が33名で、統治機関はともに平均ほぼ10年であり、あまり変わらないのです。
上にも書きましたが、結局、国家権力を担っていた皇族や上級貴族たちが、大土地所有者でもあったことが原因でしょう。
大きな勢力を持つ皇族や貴族を指す言葉で、彼らが新興の富豪層らと結びつき、私有地としての荘園を拡大してゆきます。例えば荘園として最も巨大な規模を誇ったのは、父である鳥羽院のそれを継承した八条女院領で、これなどは皇族の領地です。荘園を「貴族の…
授業でもお話ししましたが、墾田は輸租田でしたので、私有の密に誘われて土地開発が進んでゆけば、国庫も充分に潤うはずでした。しかし、奈良時代末から社会階層の大規模な変動が起こり、旧来の豪族層が衰退する一方で新興の豪族層が力を蓄え、浮浪逃亡や偽…
上に答えてきたことからすると、遣唐使の停止云々は、交易には大きな影響を及ぼさなかったようです。情況としては、9世紀の半ば以降、唐物をめぐって、院宮王臣家や大宰府管内の富豪層が買い占めを行う情況が問題化していました。交易品については、律令(…
一般的には、寛平6年(894)、菅原道真の建議により遣唐使が廃止されたと理解されていますが、この件については断片的な史料が残るのみで、実はことの実相はよく判明していません。『菅家文草』巻9 奏状に収める、道真自身の寛平6年9月14日の上申には、…
ものすごく端折って説明してしまいましたので、分かりにくくて申し訳ありません。そうですね、奈良時代半ば以降、藤原四家の競合から北家が脱けだし、さらに北家のなかで幾つかの流派が競合して、最終的に兼家流が摂関家として確立してゆくという流れになり…