2012-05-01から1ヶ月間の記事一覧

死者の国へは船で行くという発想があったようですが、それは「三途の川」みたいなものでしょうか。

「三途の川」は、生者の世界/死者の世界の間に流れる大河で、生前の行いの善悪によって、渡り方に3つの方途があるといわれるもの。仏教と道教、もしくは民間信仰が習合して中国で作られてくる観念なので、日本の古墳時代の「船」とは直結はしません。もち…

中国の思想は、どのように日本にもたらされたのでしょう。渡来人によるものですか。

やはり、いちばん大きな情報源は渡来人でしょうね。古墳時代には、朝鮮半島から戦乱を避けて列島へ渡ってきた人々や、朝鮮に留まっていた漢人遺民がさらに列島へ移動してくるといった事例があったようです。有名な渡来氏族である秦氏などは、中国的知識・技…

「鬼」や「龍」なども中国思想に由来するのですか。

そうですね。「鬼」は、講義でもお話ししたようにもとは死体の意味ですが、次第に意味が拡大し、死霊・神霊を指示するようになってきました。日本へ入ってくると、形の不明瞭なマイナスの神霊に「陰」「隠」(オン)などの言葉が当てられ、すなわち鬼=オニ…

桃が神聖なものとするなら、逆に忌み嫌われた果物、植物などもあったのでしょうか。

そうですね、やはり毒のあるものや臭いの強いものでしょうか。しかし、神聖視/忌避というのもどこに視点を置くかで違ってくる、相対的なものではあります。例えば、講義で例に挙げた桃ですが、邪霊や悪霊の側からすると、これは「忌避すべきもの」となりま…

3月は桃の節句があり、桃は邪を祓うといわれていますが、これは神仙の力を持つことと関わりがあるのでしょうか。 / 中国では庭先に李を植えるといいますが、これも神仙思想との関わりからですか。 / 仏教でも桃の花のモチーフがよくみられますが、やはり桃源郷の思想でしょうか。

季節に適合的な収穫物(いわゆる旬のもの)は、生命エネルギーが漲っている状態ですので、辟邪の能力を持つと考えられました。3月の節句は、桃の力を借りることで、子供の力強い成長を祈願する意味があるわけです。ところで、生殖器象徴でもある桃は、生命…

他界の食べ物を食べると帰れなくなるというモチーフはよく耳にしますが、普遍性のある理由が何かあるのでしょうか。また、3人の人間が冒険に出て一番最後の者のみ成功するという話もよくありますが、3という数字には世界共通の意味があるのでしょうか。

食物は捕食主体の身体を構築するものですから、生命は食物によってその土地に生かされている、別の言い方をすれば束縛されているという発想が、古くからあったようです。これが社会的に複雑化してきますと、ある社会なり共同体なりに新しい成員が加わるとき…

古墳時代の壁画からは、現在と同じような家族意識を感じるのですが、それにしては黄泉国神話が冷たすぎるような気もします。このギャップはどう理解すればよいのでしょうか。 / 黄泉国神話は、横穴式石室で死体をみる経験が増えたことが背景と仰っていましたが、現代よりみなれている死体のことをあらためて神話にする必要があるのですか。

神話は、必ずしもすべてがその時代の現実、大多数の考え方・感じ方を反映しているとは限りません。神話を分析する際には、その主題は何なのかを考える必要があります。黄泉国神話の場合、桃が神聖視される理由、生き物は必ず死ぬが生命自体が全滅はしない理…

装飾古墳に使われる鮮やかな色彩は、どのように作られたのでしょうか。また、その顔料の作成や描画を行ったのは、専門の職人だったのですか。 / 被葬者への施朱は、いつ頃まで行われていたのでしょうか。 / 壁画に用いられている他の色にも、朱のように特別な意味があったのでしょうか。

多くは、岩石を砕いて製作した顔料によるものですね。その作成と描画に関しては、専門的知識・技術を持つ氏族集団が存在したと考えられます。例えば、喪葬儀礼全体を統括していた土師氏。彼らの配下では、恐らく施朱に従事していた赤染氏・常世氏などが活躍…

秦の始皇帝陵にもジオラマが存在していますが、日本の古墳の事例、直会などと関係があるでしょうか(日本へは中国から将来された発想なのですか?)。また、なぜジオラマを作るのですか。

兵馬俑ですね。あれは直会というより、生前と同じような配下を揃えて、陵墓=死者の国でも奉仕させようとしたのだと考えられています。日中の事例に直接的な繋がりがあったかどうかは実証できませんが、墳墓に人物像を配するという発想は同じであり、やはり…

装飾古墳が増えるにしたがって、埴輪の果たしていた役割が壁画へ移行してゆくのでしょうか。

一部にはそうした情況も認められますが、あらゆる古墳が装飾古墳になってゆくわけではないので、両者の表現形式が併存していたと理解すべきでしょう。ただし、埴輪自体は後期古墳の段階で中央では作成されなくなってゆきます。やはり、祭祀・儀礼のあり方が…

人物埴輪には女性が少ないような気がしますが、このときすでに男女の職業差、社会的性差別などは存在していたのでしょうか。

今日の講義でも言及しましたが、すでに社会的・文化的性差はある程度存在し、性的役割分担もなされていました。しかし、例えば古墳への家族の喪葬形式からみても6世紀初め頃までは双系制で、女性の子供しかいない場合には女性首長もありうる状態が続いてい…

人物埴輪が中期古墳以降に多様化するというのは、家や武器の方が複雑な技術を用いずに作成できるからですか。

やはり「焼き物」ですので、複雑な形状のものであればあるほど造型・焼成が難しいということはあるでしょう。しかし、最も大きな原因は、死者観の変化ではないかと思います。前期古墳の被葬者は、封じ込めるような埋葬の仕方や祭儀のありようからみて、極め…

後期古墳になって死生観が複雑化してゆくことと、前方後円墳の墳形が減少してゆくこととは、何か関係があるのですか。

直接的に結びつくかどうかはまだまだ分析が必要ですが、各地の死生観や宗教的・政治的価値観の多様化のなかで、「壺型」のモチーフが象徴性を失ってゆく、政治的拘束力を弱めてゆくといったことはあったでしょう。また、古墳によって王権との連合関係や首長…

古代の首長や王の埋葬では、多くの祭器や宝器が副葬されていますが、なぜどのような地域でもこの種のことが行われたのですか。また、今そうしたことが行われていないのはなぜですか。

一口に副葬品の埋納といっても、時代によって意味づけが異なる場合があります。例えば、祭器・宝器自体に神聖な力、呪術力が認められているような時代では、その埋納は死者を呪的に防御するためといえるでしょう。また、古墳のなかが死者の住居と考えられる…

横穴式石室の門部や道部の名称に、「羨」字が用いられているのはなぜですか。どういう意味で使われているのでしょう。

どうなんでしょう。字義からすれば、恐らくは「墓室から溢れ出たような狭い余りの道」という程度だと思いますが。

造り出しは、築造完了後どのような状態だったのでしょうか。そのままにしておかれたのですか。

墳頂の家形埴輪、人形埴輪がそのまま設置されていたことからすると、造り出しのジオラマも文字どおり「展示」されていたのだと推測されています。それは、祭祀者でもある首長が生前執り行った祭儀を復原し、その活躍ぶりと権威を喧伝する目的があったのでし…

前方後円墳において、なぜ方形のほうが祭祀の場だと考えられたのですか。

円形部分が埋葬遺構であり、歴史的な形状の変化からすると、溝にかかる陸橋が方形部分へと発展してゆく。陸橋は、円形部分へ至る道であるわけですが、なぜ円形部分へ向かわねばならないかというと、それはやはり祭祀の斎行が目的であったと推定されます。さ…

巣山古墳の造り出しの写真は面白かったです。しかし、発掘調査というのはどのように行っているのでしょうか。場所全体が遺跡だとすると、足跡など絶対付けられないと思うのですが。

まあそうですね。ただし、遺跡の埋没している地層には幾重にも新しい土砂の層が堆積していますので、まず小規模の穴で試掘をしてから、だんだんと目的の層へ向かって地面を削り取ってゆく形になります。全面遺跡といっても、その面のすべてに重要な遺物・遺…

纒向遺跡から出土した土器が、日本各地からのものだと分かったのはなぜですか。

ひとつは形状・形式で、同時代の各地から出土している特徴的な土器と同種のものが発掘されていること。もうひとつは胎土(土器の材料となった土)で、その化学組成を調べることで、どの地方で作成されたものなのかが突き止められます。纒向遺跡から出土した…

歴史の物語りに関して思ったのは、その事象を観測する視点についてです。例でアリスタルコスが挙がっていましたが、現在からみた彼の考えと、当時の有象無象のひとつに過ぎなかった彼の考えとは、違うものなのでしょうか。

アリスタルコスの思想それ自体が言語によって構成されている以上、違うものか同じものかという問いに答えるのは困難です。明言できるのは、例に挙げたようにコペルニクス的転回を経験しなければ、我々はアリスタルコスの思想を現在と同様には読むことができ…

言語論的転回によって素朴実証主義は否定されたとありましたが、素朴ではない実証主義が存在するのでしょうか?

素朴実証主義は、当時の議論の文脈のなかで、単純な実在論への批判的呼称として使われたものでした。それに対して歴史学者は、我々は実証主義者ではあっても「素朴」ではない、批判されているような単純な認識論を持つものは歴史学者にはいない、と反論した…

言語による世界の分節、動物/人間の分節の仕方の違いですが、例えば嬉しさや悲しさといった感情は、身体的記憶として残るものなのでしょうか。

難しい問題ですね。確かに、動物には嬉しい/悲しいといった感情があり、それは記憶として残るはずです。しかしそれは、人間と同じように分節された思い出ではない。嬉しさの内容、悲しさの内容については、言葉によって意味づけされたそれより単純で、バリ…

日本では性信仰が強かったようですが、例えば『聖書』では創世記に「裸が恥ずかしい」という記述があります。日本で性的なものがタブーとされたのはいつなのでしょうか。

古代日本は、中国儒教の礼の秩序を採り入れて、6〜7世紀から様々な風俗改正を行ってゆきます。しかし、その浸透は上層階級に限定され、一般の人々は長く奔放な性への信仰を保持していたと思われます。古代の文献史料にも、時折、都市や村落で流行した過激…

神武天皇は実在したのでしょうか。 / 神武天皇など、神話とされる時代の天皇は7〜8世紀頃、天武・持統あたりに作られたといわれていますが、どう思いますか?

『日本書紀』『古事記』に載る系譜上の天皇=大王のうち、実在の間違いないのは雄略天皇〜継体天皇前後からでしょう。雄略が倭王武、ワカタケル大王とすれば、その名前は複数の同時代史料に確認できます。しかし継体天皇に至るまでの間は、系譜的に捏造の行…

古墳時代に日本に存在した国は、邪馬台国以外にはどのようなものがあったのですか。 / 邪馬台国は九州と畿内どちらにあったと思いますか。 / 箸墓が卑弥呼の墓とされるのは、どのような理由からですか。

当時の日本列島に邪馬台国以外にも国のあったことは、『魏書』東夷伝/倭人条によって確認できます。記載があるのは、対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国…

薪炭材の燃え残りから樹種が特定できるのですか。 / 「森林伐採が進み、アカマツが多用されるようになった」とありますが、森林の減少が洪水の増加などを引き起こしたため、王が広葉樹の伐採を躊躇したとは考えられないでしょうか。

樹木の組織が残っていれば、その構造からある程度樹種を特定できるのです。また、講義でもお話ししたように須恵器生産は周辺の森林を伐採して移動してゆくもので、遠方からの薪炭材の運搬は行っていません。そうした労力を投入するなら、森林の近くに登り窯…

古墳や墳丘墓の形式が次第に伝播してゆくのは、人々の移動が大規模になったということでしょうか。

確かに人の移動の問題もありますが、墳丘墓や古墳の形式の伝播は、政治的連盟関係、連合関係の証として形式が付与されたものだと考えられています。同じ形式の王墓を持つことによって、同一の政治的グループであることを標榜するわけですね。しかしそのため…

古墳は、中国にも似たようなものが存在するのでしょうか。 / 新羅あたりにある古墳が日本の古墳のルーツなのですか。 / 日本の古墳が中国や半島に影響を与えたということはないのでしょうか。

次回お話しする横穴式石室のように、日本の古墳は明らかに大陸、半島の形式を受け継いでいます。横穴式石室自体は半島の発明で、墓室内に様々な壁画を描くことは、中国で流行した形式でした。しかし、前方後円墳に至る展開は列島独自のもので、弥生文化から…

ピラミッドやマヤの神殿などには頂点がありますが、日本の古墳は平たい印象があります。高さよりも大きさの方が権力を表せたのでしょうか。 / 前方後円墳は鍵穴の形で写真・図に出ていますが、正面は方形のほうとみてよいですか。 / 前方後円墳は周濠に取り巻かれていますが、その水には何か意味があるのでしょうか。 / 前方後円墳を作るのにはどれくらいの年月がかかったのでしょうか。また、それは王の死後に造営を始めるのですか、それとも王の死を見越して準備しておくのですか。 / 古墳の築造において、役夫たちの士気を保っていた

確かに、ピラミッドほどの高さは必要とはしていなかったのでしょうね。あの人工的景観自体当時としては異様で、被支配者へ訴えかけるインパクトは相当なものであったと推測されます。また、その形状自体が神仙的世界を体現しており、宗教的に高度な意味づけ…

天皇家の陵墓は、なぜ発掘調査できないのですか。

天皇家の陵墓の発掘は、管理者の宮内庁によって禁止されているのです。ありていにいえば、発掘によって神武以来の歴史=神話が崩壊してしまうのを防ぐためですね。発掘から浮かび上がる考古学事実によって、皇室や象徴天皇制を支えている『日本書紀』『古事記…