2008-05-01から1ヶ月間の記事一覧
制は、殷を滅ぼした周の武王の叔父にあたる虢叔が、東の守りとして配置された要衝の地(河南省汜水県)です。以来、その子孫が守護してきましたが、B.C.767に鄭の武公によって滅ぼされました。荘公のいっているのはこのことですが、言葉の表面上の意味として…
『春秋』の文章は簡略すぎ、追加説明がなければ意味が通らないほどなので、注釈を必要とするのです。儒教聖典の場合、こうした原テクストを「経」と呼び、注釈を「伝」といって区別します。前者は仏教の「経」典とほぼ同じ意味になります。簡略すぎるという…
これまで扱ってきた史料によれば、黄泉の「泉」は地下水脈のことのようですね。6/6の講義で扱った『史記』の始皇帝陵の記事でも、「三泉を穿ち…」といった表現が出てきます。井戸の問題もありますし、地下は水が湧くところだという認識と結びついているので…
位牌も霊位や戒名・法名を記した札に過ぎませんから、霊魂が常時宿っているという考え方はないと思います。いつも仏壇に置かれており、故人の名前が書かれているので、礼拝する側が勝手に思い込んでしまうということでしょう。例えば浄土真宗という宗派では…
スサノオの体毛の部位と生じる樹木に必然的関係があるのか、といわれると、なかなか容易には答えることができません。しかし、現代の私たちには分からないような連想があったのだろうと思います。例えば、『古事記』に出てくるオホゲツヒメ神話では、スサノ…
いい質問ですね。機能主義的に考えるなら、もちろん前者で、船に載せる形にしたのは副次的なものだということになるでしょう。しかし文化史的に考えれば、儀礼形態自体に意味があるのだ、ということになります。先日上梓した樹木婚姻譚に関する拙論でも触れ…
日本の神話に関する研究は厖大で、みなそれぞれに読むべき価値を持っています。オーソドックスなところでは、他の地域の神話などとの比較、縄文や弥生といった考古学的成果との関連で考えるなら、大林太良や吉田敦彦といった人の本が面白いでしょう。ほかに…
平城京という新しい都へ移ってきた時点で、舒明天皇の「百済大寺」、天武天皇の「大官大寺」という位置づけが弱くなり、平城京を運営する新たな王の寺を「大寺」と呼ぶことが原則になったのでしょう。平城京では、「東大寺」「西大寺」のみが「大寺」と呼ば…
まずは個人の歌を収めた書物であるからで、いくら大王や王子の作ったものであっても、王権という政治システムから発せられる思想とは、必然的に異なってくるのだと思います。当たり前のことですが、古代人も、個人的には自然を愛好する性向を持っていたので…
時代によって波がありますが、日本列島から樹木信仰がなくなるということはありません。しかし並行して木を伐る必要はあった。むしろ日本列島に暮らしてきた人々は、木を伐ることなしには生活を営めなかった、それゆえに(自己の行為を正当化するため)伐採…
この時期、寺院どうしの軋轢はあまり見受けられませんが、逆に『書紀』の表面からみえる政治的対立とは違った氏族的交流が、寺院の造営から垣間見えることがあります。金堂に葺かれた軒丸瓦の瓦当紋様からすると、当時の造寺技術は、蘇我氏系・上宮王家系(…
新訂増補国史大系の『朝野群載』という書物に全文が収められています。しかし、宣命体で書かれていますから、史学科の訓練を積んだ人でないとなかなか読めないかも知れません。ちなみに、その原型となった「大祓祝詞」は『延喜式』という書物に収められてい…
注連縄の本質的な機能は、結界を張って内/外を断絶させることです。現在、神木と崇められる樹木の周囲に張ってあるのも、それから先が神域であることを示し、安易な立ち入りを防ぐためです。しかし、史料的な初見である『古事記』や『日本書紀』の天石屋神…
この伝承の成立については、拙稿「伐採抵抗伝承・伐採儀礼・神殺し」(『環境と心性の文化史』下、勉誠出版、2003年)で詳述しましたが、もとは河辺臣の氏族伝承であったと思われます。同氏は外交使節や外国への派遣将軍を輩出した家柄ですが、それだけに、…
言説の形式としては、中国六朝以降の志怪小説等によく出てくるものです。英雄や王が、災禍をなす神や怪物を退治して、自然を切り拓いてゆく。社会なり共同体なりが肥大化し、それを支える資源が今まで以上に必要になると、それを実現しうる規模の開発が志向…
日本古代の馬は、4世紀頃に朝鮮半島を通じて輸入された、モンゴル馬あたりが起源であると考えられています。東北には野生馬がいた可能性がありますが、現在の列島在来種はモンゴル馬と遺伝子的に一致するようです。サラブレッド等と比べれば小型種に属する…
直接的に夜を象徴するというより、やはり再生のシンボルだったとみるべきでしょうね。ウサギは極めて繁殖力が高いので、西欧文化圏においてはイースターと結び付けられる反面、性や肉欲の象徴ともされました。インドでは、自分の身体を犠牲にして仙人を救っ…
貞操とはやや違うように思います。ここは解釈の分かれ目で、イザナミは腐乱した姿をみられたことを「辱」としたのか、それともイザナギに逃げられたことを「辱」としたのか。二者択一にしないでもいいのですが、いずれにしろ、その背景には生者の世界/死者…
個別に判断すべき問題でしょうが、壁面に描画されているからといって、副葬品が少なくなることはありません。むしろ、凝った壁画を残す古墳は、それだけ先進的な文化を受容しうる、多くの工人・技術者を抱えうる政治集団のものでしょうから、それなりの副葬…
どうなんでしょう。そういう個別の情念みたいなものが制度へ影響を与える、という視点は大切だと思いますし、考えてみなければいけないことですね。ただ、現在の考古資料や研究情況からみえてくるのは、むしろ、「後継者の権威付け」かも知れません。前代の…
芸能と祭祀とは密接な関係があり、歴史の古い楽器はたいてい神祭りの道具に由来します。琴の使用は弥生時代まで遡ることができますが、『日本書紀』神功皇后摂政前紀では、神功が仲哀天皇に祟りを降した神を知るために数多の神霊を呼び寄せ、体に憑依させて…
いろいろな考え方があるでしょうが、中国的世界観に照らして考えれば、天を象徴する道具、あるいは太陽を写した道具として円形を取るのだと考えられるでしょう。中国では天は円形、地は方形という、経験的観察に基づいた世界観があります。鏡は地上に置けば…
これは、線刻の文化と描画の文化とのモードの新旧に由来することと思われます。線刻は人間が文字や絵を描くときの方法として最もプリミティヴな方法で、身体と刻むことのできる硬質な道具があれば可能なワザなのです。それに対し、描画は顔料の作成を下準備…
九州の古墳を扱うのは、単純に、福岡・熊本以外の地域に類例として優れた装飾古墳がないからです。東日本太平洋側の茨城〜福島辺りは、九州と同様に装飾古墳が多く分布する地域で、七世紀以降に幾つかの類例を認めることができます。描かれた内容は、九州に…
もちろん、それでは困ります。これまで長々とお話ししてきた「環境史の視座」を思い出してくれれば、歴史学的知識の活用のあり方を分かってもらえるはずです。しかし実は、「事実をありのままに捉える」ということ自体が、本当はいちばん困難なんですよね。…
大山誠一さんの学説ですね。厩戸王という王子がいたことは確かですが、『日本書紀』に記されている「聖徳太子」としての彼の事績には粉飾が目立つということです。ちなみに手前味噌ですが、最近の大山さんの論考には「崇仏論争は『書紀』の構築したフィクシ…
そうです。服装や髪型などの身分標識も礼の重要な要素です。次回お話ししますが、推古朝は中国の礼制が本格的に輸入・実践された時代で、宮廷での立ち居振る舞い方、具体的な儀礼の進め方などが決められます。冠位十二階の制定もその一環なんですね。
都城は中国で創始された都市の制度、宮都は日本固有の王宮・王城の呼び方です。「宮」が「御屋」すなわち貴人の住む建物を表し、「都」が「宮処」すなわち宮を含む周辺の空間を表します。どちらが正しいということではなく、「宮都」とは王の住む建物とその…
弥生時代は戦争の時代といってもよく、中国の史書にも倭国大乱のことが記されています。考古学的にも、焼かれた家々や鏃の刺さった人骨など、戦争の痕跡が検出・確認されています。各地の中小の共同体が農耕の収穫などをめぐって対立し、弱小なグループはよ…
宮廷を視覚的に荘厳する発想は中国からもたらされたものでしょう。しかし、それを実現するための土木技術が、それまでの日本にまったくなかったわけではありません。例えば古墳前期より存在する首長墓〈前方後円墳〉は、高度な土木技術により計画的に築造さ…