歴史学特講(17春)

授業でお話のあったような差別問題は、非常にセンシティヴな問題であるため、私たちが大々的に介入して、抵抗活動を行うことは、逆にナンセンスであるように思える。そこで私たちができることは何かと、授業を通して考えてきたが、やはり「彼ら」について深く知ることこそが最も重要ではないかと思う。実際に、この授業を受けるまで知らないことが多く、差別の実態に衝撃を受け、感情的になることが多かったが、彼らのことを深く知り、無意識レベルに差別していることに細心の注意を払い、この授業を通して学んだことを、自らの研究や思考に活かすこ

ありがとうございます。春学期、不充分ながらも懸命に授業をしてきた甲斐があります。確かに、まずは知ることが重要です。しかし、いったん知ってしまえば、きっと何もしないわけにはゆかなくなるでしょう。実際の政治・社会運動でも、もちろん研究を通じて…

日本国内での差別が、戦後こうした形でなされていたことに驚いた。そして逆に、70年でここまで倫理観が育ったことにも驚いている。

うーん、そうなのでしょうか。ぼくには、逆に倫理は崩壊しているように思われてなりません。あるいは、表面的な体裁は整えられていても、内実は極めて酷いことになっているのではないでしょうか。ヘイトスピーチを主導してきた人種差別団体のトップが、東京…

現在、『この世界の片隅に』など、反戦を想起させるような作品がよく取り上げられている気がする。新安保法案などから、社会が反戦ムードに傾いたのだろうか。それとも、戦争から70年以上経ち、我々が先の大戦と向き合えるようになった、客観視できるようになったからなのだろうか。

戦争映画のテーマの変遷を辿ることは、日本や世界の人々の戦争観を探るうえで有効だと思います。ぼくが育った1970〜1980年代は、ベトナム戦争後の冷戦期で、世界は常に核戦争の危機に直面していました。50年代以降、例えばハリウッド映画は、連合国側を正義…

広島では原爆に関することが平和学習と題して行われ、クリアランスをせず、できる限り克明に原爆を伝えようとしてきました。最近では、資料館の原爆人形を除去するなどのクリアランスも行われていますが…。

そうでしょうか。例えば、授業でも扱った基町・相生通りなどは、かつて存在したバラックが一掃され、清浄な公園・河川沿いの遊歩道として整備されています。これはやはり昭和30〜40年代、平和的復興の名のもとに、広島市内の各河川沿い、広島城の御堀端など…

震災後の日本はやたら愛国心を煽るような言説が増えたように感じますが、大きな災害の後は差別やクリアランスに繋がる言説が広がるものなのでしょうか。

その傾向は強いようです。人々が災害の前にうちひしがれ、不安を払拭し自信を取り戻そうとする過程で、保守的になったり、あるいは〈大きなもの〉に依存することで、救済されようとしているのでしょう。また、災害によって長い期間にわたって社会に蓄積され…

有島武郎が遺したアイヌに関する本とは何でしょうか、教えて下さい。

未完成の絶筆となる「星座」という作品です。有島が未だ札幌農学校の学生であった1900年、友人たちと千歳川沿いを旅行し、北海道旧土人保護法のもとで苦しめられるアイヌの姿をみたことが、執筆の動機となっていたようです。保護法の立場に基づいて北海道経…

訳書も原書も読んだことがないので偏見かもしれませんが、宮本常一がクロポトキンに傾倒したのは、クロポトキン自身の思想でしょうか。それを訳す際、大杉栄は自分の思想と混同しなかったのでしょうか。

クロポトキンについては、当時原書で読んだ人も少なくありませんでしたので、大杉栄が意図的に自らの思想を忍び込ませたということはありません。しかし面白いことに、宮本常一は『相互扶助論』を大杉の思想として受容したようです。同訳を収録した1964年刊…

「人はみんなマイノリティである」という話から、マイノリティの線引きがどこからなされるものか気になった。

何かと何かを区別する線引きは、常に相対的なものです。マイノリティは直訳的には少数派ですから、ある情況においてはマイノリティであった人々が、別の条件のもとではマジョリティになるということも、もちろんその逆もありえます。しかしこの授業では、マ…

先日、現代美術をしている友人と戦争を美術にすることの可不可をめぐって議論になりました。現状の社会のなかで、批判を含んでいると明確に分からない形で戦争に関わる遺物(軍服など)を提示することについて、先生はどう思いますか?

ぼくも基本的には、きちんと批判的に扱う文脈ができていない形で、とくにファッション的に優れているとか、格好がいいとか、興味本位で提示するあり方には反対です。とくに、その背景にあるものが隠蔽されたり、正当化されたりするようなもの、例えば日本に…

この授業を取ってから、今まで自分が学んできた近代国家日本がいかに幻想にまみれていて、本当の姿からかけ離れていたかを痛感しました。探せば日本よりひどい国はあるかもしれませんが、他がひどいからよいという問題ではありません。こう考えるのは理想主義的で、現実では通用しないのでしょうか。

いえ、そんなことはありません。事実、歴史認識という意味でなら、東日本大震災より前の90〜00年代のほうが、日本の情況は現在より民主的でした。10年代、とくに東日本大震災以降、あたかも関東大震災が戦時体制を準備したことを繰り返すかのように、国権の…

当時の考え方に、「人道的」という側面は欠如していたのでしょうか? それとも帝国大学であったために、人種に対する研究が行われていたのでしょうか? 江戸時代から通じる「野蛮さ」のようなものが、まだ残っていたのかもしれないと思いました。

「人道的」という言葉の意味、感覚が、現代とは違っていたというほうが、正確でしょうね。近代の日本社会=帝国日本においては、とにかく国権の占める位置が大きく、個人の意志や倫理よりも、そうした意味での公の価値観、秩序が優先されていたのです。帝国…

「植民地支配の最先端であった北大」という云い方がなされたが、北大をはじめ東大や京大は、帝国日本においてどのような役割を果たしていたのだろうか。

北海道大学は、1876年に北海道開拓の指導者を養成するために設けられた札幌農学校を母体に、東北帝国大学農科大学を経て、1918年に北海道帝国大学となったものです。しかし上記の「開拓」がアイヌへの抑圧を含んでいたことは授業で扱ったとおりで、例えば189…

誰もしたことのない分野や発展的な内容の研究を行うとき、そうした調査におけるレッドラインとはどれほどの位置にあるものなのだろうか。

自然科学の場合は、残念ながらその〈限界線〉は極めて低く設定されてしまっています。冷戦体制下では、東西両陣営が相手を威嚇するため、あるいは殲滅するための兵器開発に血眼になっていましたが、恐ろしいことに、その時代のほうが現代と比べ、科学の〈進…

今日のレジュメに、東学農民の反乱を鎮圧した部隊の史料が3つ挙げられていたが、いずれも四国のものであったのはなぜでしょうか?

あとの授業でも少し紹介しましたが、東学農民殲滅戦の専当部隊となった後備歩兵独立第19大隊は、当時大本営が置かれていた広島からも近い、主に四国4県から召集された兵士でした。指揮官は大隊長 南小四郎少佐、この人は長州出身で、幕末の諸戦争から伊藤博…

インターネットもない時代で、どうやって東学党は大規模な人数を集められたのですか?

うーん、そういわれると、80年代以前には大規模な人間の会集が困難だった、という話になってしまいますが、もちろんそのようなことはないわけです。人間社会には種々の情報伝達の方法があり、最も原始的ともいうべき「うわさ」や「口コミ」も、情況によって…

陸羽132号が東北や北海道で試験を繰り返したとありましたが、陸羽132号の導入で東北の農業が変わったりしたのでしょうか?

それ以前とはまったく異なる情況となりました。現在、東北と北陸には日本最大の穀倉地が広がっていますが、これは陸羽132号の開発に端を発するものです。同米は、メンデルの法則を用いた交配によって作られた日本初の品種で、冷害に強く品質の良い亀の尾とい…

帝国日本のクリアランスでも整理できなかった火田民が、1960〜1970年代の朴正煕政権ではなぜ整理できたのか。

他の共同体からドロップアウトした火田民について、代わりの田畑を与えたり、火田を熟田にしてよいとの方針もあったのに、なぜなくならなかったのだろうか。

火田民は北朝鮮でも存在していたのですか。

授業でお話しした、「火田民の多い朝鮮半島の北部」が現在の北朝鮮です。地図をみれば分かりますよね。

『青邱野談』の禹は、はじめ普通であったのに、山で火田民のような人々になじんだということでしょうか。『山月記』の李徴も殺人によって虎になりますが、それも被差別民になったことの譬喩なのですか?

『青邱野談』は、話の枠組みは、それこそ中国南北朝時代に作成された説話を援用したものと思います。士禍を避けて山に入った人々、苛斂誅求を受けて山に逃げ込んだ人々が、どのような状態であったのかを想像した際に、その言説の枠組みが用いられたというこ…

日本において、焼畑を行っていた人々の生活は、平地民のそれとはどのような相違があったのでしょう。

これも高校までの授業では習わないことかもしれませんが、近世初期の山村においては幾つかの一揆が起こり、幕府によって鎮圧されています。例えば、慶長19年(1614)の北山一揆、元和5年(1619)の椎葉山一揆、同6年(1620)の祖谷山一揆です。これらの地…

『遠野物語』の山人は、差別的なものだったのですか? てっきり妖怪の類だと思っていました。

妖怪のなかには、異人を妖怪化して表象する場合もある、ということですね。昨年、今年度とジャパノロジー概論でも扱ったのですが、毛むくじゃらの人間というのは蛮人表象として世界共通です。中国では夷狄、蛮人に対して用いられ、日本も早く古代の蝦夷表象…

焼畑農業は日本でも行われますが、朝鮮から伝わったものなのでしょうか?中国では行われているイメージがないので、朝鮮発祥でしょうか?

これも授業でお話ししましたが、中国でも行われています。主に、森林の回復力が強い南方で盛んで、少数民族のなかには焼畑を行いつつ移動する集団もままみられます。九州南部から東南アジアにかけてみられる竹の焼畑は、通常の焼畑では30年かけて森林が再生…

素朴な疑問ですが、どうやって火を使って耕作したのですか。水田しか知らないので、思い浮かびません。

授業でも話をしましたが、火田とは焼畑のことです。すなわち、秋から冬にかけて畑にする場所の木々を伐採し、草を刈り、これらを乾燥させておきます。冬から春にかけてこれに火を付けて焼き、残った灰を肥料にして穀物を育てるのです。

一度クリアランスが発動し、それまでのセーフティネットが壊されてしまうと、マイノリティ差別も根付いてしまうように思う。公権力が差別を助長しているようにも思う。このような差別はどのようにしたら解消できるのだろう。どのようにしたら、我々は差別的視点から自由になれるのだろう。

これは、上の回答に対する正反対の心的態度を醸成することが肝要です。ひとりひとりの他者に注意を払うこと、その重みをしっかりと受け止めてゆくこと。もちろんそれは極めて困難なことなのですが、可能な限り実践できるなら、差別や戦争に対する強力な抑止…

人々の潜在的な"クリアランス"の気持ちは、どんなものがきっかけで生まれ、育まれるのだろうか。

日本列島の場合には、歪に肥大した衛生観念と密接に繋がった差別的認識、そうして何より、ここの具体的な問題やひとりひとりの他者に対する無関心だろうと思います。ひとりひとりの抱える事情、彼らが歩んできた道のり、苛酷な現状に対し、眼差しを向けない…

私は熊本県出身で、本妙寺という名もなじみ深いものでしたが、ハンセン病者の集住地であったことは初めて知りました。ハンセン病者とえば菊池恵楓園という認識しかなかったためです。恵楓園が作られたのは、この時期よりも後なのですか?

恵楓園という名称になったのは1941年ですが、その前身は九州療養所ですから、もともとは1911年にまで遡ります。しかし、恵楓園はあくまで公権力に基づく施設で、1931年の癩予防法に基づき強制収容を進めるものでしたので、それを恐れ嫌がった病者たちが本妙…

八紘一宇のスローガンが、ハンセン病と結びつく意識が、その程度国民の共通認識となっていたかを知りたい。

八紘一宇の言辞は、それを創作した田中智学が説くように、日本〈民族〉と日本文化の優生性を強調するものです。その優生性の表明を疎外するような要因は、〈誤り〉〈例外〉として削除、隠蔽しようとするベクトルが生じることは、想像に難くありません。そも…

的ヶ浜に集住していた人々のなかに、在郷軍人が含まれていたことは驚きでした。近代日本で、名誉あるものとして扱われ、恩給も支給されているはずの軍人が、なぜ被差別対象とされるに至ったのでしょうか。

当時の『大分新聞』では、焼け出された在郷軍人の次のような証言を記載しています。「国の勝手な時に国の軍人と言い、命を的に戦場で働かせ、時によっては乞食扱いにされて家を焼かれ、また、生きていく望みまで奪うとは実に闇の世界だ」。当時のジャーナリ…

的ヶ浜事件ですが、的ヶ浜隠士の文章が発表されてから、何か事件をめぐる情況は変化したのでしょうか?

的ヶ浜隠士は、恐らく同地域の浮浪者たちを援助していた真宗木辺派の僧侶、篠崎蓮乗であったと思われます。彼の抵抗運動と、憲政会系の地元紙『大分新聞』が官憲を糾弾する論陣を張ってゆきます。篠崎は、当時反差別の活動を開始していた水平社に協力を求め…