日本史概説 I(08春)

レポートに図や写真を入れても大丈夫でしょうか。

もちろん構いません。というより、いろいろ工夫して分かりやすさを追求するのはいいことでしょう。引用の場合は、出典をきちんと明記してくださいね。

なぜ建築物の礎石として花崗岩が使われたのでしょう。また、それはどこから持ち込まれたのですか。

奈良県にも花崗岩は分布しており、南方の大峰山系、飛鳥の付近では談山神社のある多武峯にも産出します。花崗岩は緻密で硬度が高いため、石材としては重宝され、後世にも寺院の基壇や城の石垣として使用されています。いわゆる御影石も花崗岩です。

瓦を焼く技術の発展、瓦を載せる建物を建てられるようになったことは、やはり大きな進歩だったのでしょうか。

このような展開を通して、徐々に古代人の自然認識が変質していったとすれば、やはり大きな変化でしょう。瓦の大量生産、それを載せることのできる木材の伐採、それらが藤原宮造営で可能になったとすれば、以降の時代においても前代ほどの心理的抵抗なしに開…

須恵器の材料となる粘土は、窯の周辺から得ていたのでしょうか。

基本的には、窯周辺の粘土を用いたと考えられています。よって、各地域の遺跡から出土する須恵器がどこの窯で焼かれたかなど、形状や叩文など視覚的に確認できる特徴のほか、蛍光X線分析による胎土の調査が決め手となっているのです。環境負荷の観点から考…

古代から存在する「鬼」について興味があります。今では妖怪のようなものを思い浮かべますが、古代でもそうだったのでしょうか。中国では「魂」といった意味であったと聞きましたが。

中国で成立した「鬼」という文字自体、朽ち果てた頭蓋骨と肢体の残骨を象形したものです。中国古代ではこの頭蓋骨に霊を呼び寄せて祭祀を行い、それを立てておく台の木主が、やがて位牌に姿を変えてきました。ゆえに鬼とは屍体、転じて死霊を総称する言葉と…

昔はよく「日照りで作物ができない」ことがあったようですが、現在では、作物に影響するほど雨が降らないことはあまりないように思います。昔と今とでは、やはり気候もずいぶん違うのでしょうか。

農業技術の向上や品種改良、輸入や備蓄によって、表面的には不作の甚大な影響を免れることはできていますが、現在でも天候によって農業に被害の出ることは多くあります。記憶に新しいのは平成5年(1993)の大凶作で、大規模な冷害や台風被害が原因となり、…

蘇我氏の仏教儀礼で雨が降らなかったということは、仏教の権威がまだ充分ではなかったということでしょうか。

確かにそうした見方もできますが、ここでは蘇我氏批判/天皇称揚の恣意が強いと思います。また、仏の力より天皇の神的力の方が上であることを示さなければならない政治情勢もあったでしょう。それは皇極朝のことというより、恐らくは天武・持統朝の課題で、…

男の孝徳より女の皇極の方が先に即位していますが、この頃の王位継承の基準は何なのでしょう。

これは難しい、現在でも女帝の位置づけをめぐって議論の絶えない問題ですね。古代において女帝が即位する際には、皇族やその依拠勢力である豪族どうしの間で充分な折り合いがつかない情況にあるとき、前天皇の皇后としてその調整役を果たすべく皇位に就く場…

民衆は、皇極天皇と斉明天皇が同一人物と知っていたのでしょうか。

大事な視点ですね。どの程度のスピードで、どの程度深く認識していたかは分かりませんが、古代の民衆にも天皇の個性に関する情報はある程度伝わっていたものと思われます。それは、各国の地理や産物、伝承などをまとめた『風土記』に、固有の天皇の伝承を持…

『日本書紀』が天皇によって記述態度を変えているのはなぜなのでしょう。書き手が朝廷側である以上、民間の評価を無視して天皇を賞賛すればよいと思うのですが。 / 『日本書紀』は天皇権力の偉大さを示すものなのに、どうしてわざわざ神や自然の脅威を描いたのでしょうか。

ひとつには自然崇拝を基底とした古代人の宗教的心性、もうひとつには中国的な歴史叙述のスタイルの踏襲によるものでしょう。『書紀』が史書である証ともいえます。前者については、天皇は自然神を超越した存在を志向していながら、その宗教的権威も自然神崇…

『日本書紀』における大化改新の記述の信憑性はどれくらいでしょうか。

これは古代史における大論争が繰り広げられてきたところですね。現時点では、改新の諸政策については実効性の疑わしいもの、記述に粉飾の目立つものがあるものの、乙巳の変のクーデターと、それに連動する政治改革が行われたこと自体は否定されていません。…

歌が呪術的な意味を喪失するのはいつのことでしょう。

中国の『詩経』より踏襲した「歌は鬼神を揺り動かすもの」という意識は、奈良時代の藤原浜成『歌経標式』、平安時代の紀貫之『古今和歌集』序にまで続いてゆきます。本来、宗教儀式と密接に結びついていた芸能が娯楽・芸術として確立してゆくのは中世後期、…

高所で行う国見について、天皇は、自らの足ではなく乗り物に乗って登ったんですよね?

そうですね。明確な記述はないですが、おそらく輿のようなものを使って、担がれて登ったのでしょう。

国見とは支配地域の確認であるとのことですが、この当時天皇が支配していた地域とはどれくらいの広さだったのでしょうか。

国見自体は、その視界の及ぶ範囲にしか効果を及ぼしませんので、天皇は行幸して移動し、重要地域の高所に登っては国見をしたようです。支配地域の方は、それとは関わりなく広範囲に及んでいて、すでに5世紀の雄略天皇の頃には東国から九州までを支配下に入…

国見についてですが、天皇が「みる」ことによって権力が浸透する、と認識していたのは誰なのでしょう。

主に支配層ですが、みること/みられることに呪術的な意味を認めていたのは広範な階層だったようです。古代中国では、戦争の際に媚女というシャーマンが相手をみつめて呪う、呪術合戦が行われます。目を象徴的に表した青銅器の類も見つかっています。いまの…

木本儀礼の際に、許可が得られないということはあったのですか。それとも、形式的に行っていただけですか。

許可の得られないことはほとんどなかったと思われますが、たとえば以前に授業で扱った『日本書紀』推古天皇二十六年是年条など、樹木が伐採に抵抗するという話は残っています。この伝説には木本儀礼を行った形跡もみえますので、祭儀の執行中に何らかの異常…

式年遷宮のために、杣山の樹木がなくなってしまうということはなかったのでしょうか。

伊勢の杣山には時代的変遷があります。当初は神宮周辺で調達していたようですが、次第に広範囲に及び、江戸期には木曽山へ固定されたようです。神宮の建築物を賄うには充分だったようですが、恐らくは周辺の農村、政治勢力との山をめぐる競争があり、良材を…

遷都は疫病が流行したり、占いで悪い結果が出るなどして行われたのだと思いますが、式年遷宮もそれが発展して行われるようになったのでしょうか。

式年遷宮は造営の場所自体をまったく変えてしまうわけではないので、凶事を契機に行われたのではありません。詳しくは分かりませんが、20年は木材の耐用年数を表しており、老朽化による新築を意味するのないかという説があります。ちなみに、式年の「式」と…

式年遷宮は、最も近くていつ行われるのですか。

いますでに進行中です。最初の山口祭から最後の御神楽奉納まで8年を要しますが、今回の第62回遷宮は2005年から始まり、2013年に終了することになっています。すでに御木曳までが終了し、今年は地鎮めが行われる予定です。詳しくは下記のURLを参照してくださ…

藤原宮の場合、建設にはどれくらいの期間、労働力を費やしたのでしょう。労働力に充てられたのはどのような人々だったのでしょうか。

講義でも述べましたが、労役としての仕丁と、日雇いの雇夫といった単純労働力が主力であったと考えられています。前者は8世紀の養老令制で2000人強が上京し(廝丁も含めれば2倍)、各司庁へ配分されていました。唐令にはない制度なので、藤原京で本格的に…

エビノコ郭の呼称は何に由来するのですか。

この区画の発見された地名、小字名に基づいていますが、岸俊男氏は、「蘇我蝦夷の子」を意味するとも述べています(『日本の古代宮都』岩波書店、1993年、54頁)。小澤毅氏などは、適正な呼称とはいえないと批判し、「東南郭」の名称を用いるべきであると述…

古代人にとっては、自然環境も、国を発展させてゆくための手段のひとつに過ぎなかったのでしょうか。

いまお話ししている7世紀の時期に、自然環境を客体として、対象としてみるまなざしが展開してゆくものと考えられます。それ以前は自然と人間は一体であり、人々は自然の神を恐れ敬い、それに育まれる形で生活を営んでいた。それが開発の対象、発展のための…

温泉に入るという習慣は、いつ頃から始まったのでしょう。

『日本書紀』などにみられる事例を勘案すると、6世紀後半には確実に始まっているといえそうです。しかし、動物が温泉に入る事例もあるわけですから、周辺の人間たちが太古から利用していた可能性はあります。

蝦夷はアイヌではないと聞いたことがありますが、人種として当時のヤマトの人々と同種だったのでしょうか。もしそうなら、何を基準に夷狄化を行ったのですか。

アイヌと沖縄の人々のDNAが縄文人のそれと一致する、という説がありますが、縄文時代から弥生時代への変化は平和的融合として起こったことが分かっているので、7世紀の蝦夷とヤマト王権の人々が人種的に異なるものだったとはいいきれません。しかし、かなり…

大王の側近豪族である阿倍氏が、なぜ東国に拠点を置いているのでしょう。

阿倍氏が東国に拠点を置いているのではなく、阿倍氏の統轄する丈部が東国に分布しているのです。

古代の貴族たちは、漢詩をどのように勉強したのですか。

まずは漢語の勉強です。その際、漢籍から様々な文章を抜粋し分類した「類書」とよばれる書物が重視されました。代表的なものとしては、『初学記』『芸文類聚』『北堂書鈔』などが有名です。そうした漢籍から、日本人は、自分のみている草花や動物、自然現象…

なぜ近江大津宮が文芸の発祥地として選ばれたのでしょうか。

もちろん景勝の地であったことも大きいですが、この宮の頃、百済の滅亡によって、倭へ大量の亡命百済人がやってきたことも原因のひとつでしょう。とくに百済王族を迎えたことは、百済の宮廷文化の摂取に繋がり、進んだ渡来系の文化が繁栄しました。文芸の急…

「大王は神にしませば…」の歌は、私が受験のときに覚えたものと違っていました。全部で何首あるのでしょう。

次回以降、メインで扱うときに、一覧にしておみせします。直接的・間接的に、柿本人麻呂という宮廷歌人が関わっているのが特徴です。

数々の宮が登場していますが、遷都された後の建物などはどう処理されたのでしょうか。再利用はあったのですか。

されていますね。近年、年輪年代測定法の進化が著しく、遺跡出土の木材がいつ頃伐採されたものであるかがよく分かるようになってきました。昨年10月にも、平城宮跡で検出された木材の1つが694年の伐採であったと確認され、藤原宮もしくはその周辺の建築物の…

映画などでみる陰陽師は、妖怪退治が仕事であったように思います。今日の講義では風水が出てきましたが、物の怪への対処に根拠はあるのでしょうか。

もちろん陰陽師が物の怪の調伏に活躍する史料も存在します。しかし大部分が説話や伝説の類で、実録的な史料においては、卜占・天文観測・造暦などが主な仕事でした。物の怪退治に活躍するのは大部分が密教僧で、陰陽師のそれは安倍晴明の神話化を通じて喧伝…