全学共通日本史(17秋)

歴史を学習していたころからの疑問なのですが、遺跡や水田跡というのは、なぜ破壊されておらず、きれいとはいわないが、ある程度当時の形で発見されるのでしょうか。

縄文以降でも1万年以上にわたる日本列島の人類史において、もしその痕跡が破壊されずに残っているとしたら、いま都市が展開している平地などは、そこらじゅう遺跡だらけのはずです。しかし現実にはそうなっていないのは、大部分の文化痕跡が自然崩壊し、あ…

現在日本において、「芝山」といった地名が多く見受けられるのは、柴草山が広がっていたためなのですか?

基本的にそうです。芝山、柴山のほか、芝原、柴原、茅山、茅原など、用途に応じたさまざまな地名が残っていますね。

寒冷化や耕地拡大のために木を伐ったとのことでしたが、世界的にも同じ傾向があるのでしょうか?

例えばヨーロッパなどでは、森林は産業革命期と比較すれば、現在のほうが保護されて回復しています。ヨーロッパは、古代文明の起こった地中海の周辺で早くから森林伐採が進み、もともと森林のまばらな地域であったこともあり、樹木のない乾燥した空間を醸成…

源平の争乱で焼失した東大寺を再建するとき、再建用の木材を九州のほうから運んできたという話を聞きました。近畿地方では、森林の伐採が進んでいたためでしょうか?

重源の東大寺再建の基盤になったのは、九州ではなく中国地方、とくに周防国(現在の山口県)ですね。ほかに安芸(広島)、備前(岡山)なども造営料国に設定されています。重源は、畿内周辺では紀伊や伊賀などの荘園にてこ入れをしてゆきますが、やはり東大…

古墳寒冷期の国家形成について。世界史的にみて、生態系の生命力が強い温暖な地域は文化が発展せず、寒さの厳しい地域は発展していることと同じ理屈なのでしょうか?

同じとはいえません。そもそも、温暖な地方での文明発展がないという考え方自体、不正確であることは、エジプトやインドの古代文明をみれば明らかです。中国でも、比較的寒冷な地域の黄河文明と同時期に、南方の長江流域でも高度な文明が発達していたことが…

弥生時代の寒暖の差が激しい気候は、現在の四季のようなものが、もっと極端な振幅を持っていた状態ということでしょうか。すると当時、体調を悪くする人が増加したとは考えられませんか?

寒暖差が激しいといっても、グラフに示しているとおり、600年というスパンのなかでのことです。古気温曲線では、1年の間における微細な温度変化はデータ化できませんので、四季が大きな振幅で訪れるというわけではありません。ただし、気候が温暖期/寒冷期…

縄文時代には戦争はなく、平和であったと習いました。とすると、稲作伝来を契機に急に身分の上下が振り分けられたのでしょうか? それだと、少し不自然に感じられるのですが。

現在でも、狩猟採集社会に近い形態の民族社会は存在しますが、それらにおいては、一部への富の集中、それによる権力の偏重が禁忌とされてきました。集団で獲得した食料は、それぞれの貢献度の差違があろうと、可能な限り平等に再分配されたのです。縄文時代…

今回の講義を通して、高度経済成長というものが環境史的にはどのような位置づけになるのか、よく分からなくなってしまいました。山々に緑を戻した一方で、公害などの汚染もあったため。

非常に複雑な時代ですが、自然環境的にも、「地方農村が中央都市の食い物に位置づけられた時代」といえるかもしれません。都市への若年労働者の流入、人口の集中、第一次産業の衰退は、農業の衰退と農村の過疎化をもたらし、結果として里山の自然の回復を生…

森林伐採が以前から大規模に行われていたとして、ならばなぜ日本人は、昔から自然と共生してきたという言説が生まれたのでしょうか。 / 日本人のなかに、「緑は美しいから守らなければいけない」との考えが共通認識となったのは、いつのことなのでしょうか。

王権の政治的権威、寺社の宗教的権威を保持するために、森林の美観を保持しようとする考えは、古代からありました。仏教のなかにも、生命圏平等主義的な考え方から、動植物の殺生を忌む発想が同時に存在しました。個人の発想では、江戸後期の安藤昌益、近代…

かなり昔から人間によって自然に手が加えられていたことが、研究によって分かっている。このような事実を与えられると、「人間が手を加えない自然こそが良い」というイメージを押しつけられているように感じるが、果たしてそれは正しいのだろうか。

このあたり難しく、また微妙な問題です。手つかずの自然を至上とみなす考え方をピュアイズムといいますが、これは質問者の意見と同様、さまざまに批判されています。ただし、前回お話ししたアンスロポセンの問題を考えると、人類の活動が自然環境の回復能力…

洪水や地震などの歴史が、日本において重視されない、または伝承されない理由は何なのでしょうか?

重視していないわけではないだろうと思います。事実、地震や津波の頻発する地域では、その危険や避難の方法を訴える口碑、それについて明記された石碑などの類が存在します。しかし、近代以降、列島社会は大きな流動化のなかにあります。先祖代々同じ場所に…

義満が北山第における接見儀礼でとった態度は「現実主義的」とのことだが、その具体的な意味がよく分からなかった。

つまり、名目や理念よりも現実的な利益を採る、という姿勢です。義満とすれば、明に対する完全な臣従は潔しとしない。しかし、交易による利益は捨てがたい。そこで、明の儀礼のあり方を主体的に改変して対応、その譲歩を引き出し、自らの利益も保ちえたので…

受験のときも不思議だったのだが、都城における宮殿の位置が、平城京以降はすべて北部中央だが、藤原宮のみ中央部にあるのはなぜしょうか。

藤原京の宮を中心に置く構造は、中国における戦国時代末期の書物『周礼』考工記に依拠していたと考えられています。これは中華思想と同じ空間概念で、中央に文化の中心としての王があり、その徳が周縁へ向かって及ぼされてゆくことを示しているのでしょう。…

新たに『宋朝僧捧返牒記』が出てきて、以前までの様相を覆す内容であると、以前までの資料は誤りとみなされてしまうのでしょうか。それともやはり編者や他の資料との一貫性などの情報に基づき、それぞれの資料を相対化して、どれが「正しい」とみなされるかを決めてゆくのでしょうか。『福照院関白記』や『満済准后日記』は、日記であるぶん主観が入ってしまうと思うのですが。

これまでの授業でもみてきましたが、現代歴史学では、史料を「正しい」「誤っている」という、二者択一的な見方で価値付けたりはしません。『福照院関白記』や『満済准后日記』は、確かに書き手の主観から成り立っている文献ですが、それゆえに、問題の事象…

日本の朝廷や皇室との軋轢を避けるべく、明使の接見儀礼(冊封儀礼)を秘密裏に行おうという義満の意図が、側近の武士たちには共通認識として存在したのでしょうか?

そのあたりは難しい判断になりますね。儀礼の詳細は記録としては残っていますので、完全に秘密が保たれたかというと、そうではなかったろうと思います。管領斯波義将が義満の対応を批判したのは、その儀礼の詳細を知ったうえでも「事過ぎたる様」と判断した…

中華思想のもとに外交を行ってきたはずの明は、義満が目の前で明の規定どおりに儀礼を実践しなかったのをみて、黙っていられたのでしょうか。

史料として明確に残っていないのですが、恐らく明側の使者と義満側との間でかなりの折衝があり、妥協点が探られたはずです。義満としては、現実主義的に明との外交を成就したい一方、国内の批判に配慮して、完全に臣従するような態度が喧伝されることは避け…

私周辺の人間のなかで、「歴史は勝利した者たちにより叙述されたものであるから、どれくらいの歴史内容が嘘なのか計り知れない。ましてや日本の歴史問題である慰安婦、南京事件などもどれくらい真実なのか分からない。もしかするとすべて嘘なのかもしれない」という考え方を持つ人が少なからずいるみたいです。このような歴史観に基づく態度について、どのように思われますか。ここにも「歴史修正主義」的な態度がみられるのでしょうか。

「歴史修正主義」はhistorical revisionismの訳語ですが、あたかも良い方向へ変更されるかのような印象を与えるので、あまり適切ではないかもしれません。それはともかく、質問のような態度ももちろん、いわゆる「修正主義」に含まれます。しかし、「修正主…

義満が明にこだわる理由は何なのだろう。称号がないと交易ができないのであれば懐良親王と交渉すればいいだろうし、単に称号がほしいだけならば勝手に名乗ればいいのに。実際は冊封体制にも応じていなかったと聞いて、ますます分からなくなってしまった。

義満が明との外交に拘ったのは、やはり交易の利益が大きいためでしょう。その意義について国風文化の単元でみたとおりですが、種々の階層の交易のうえに朝廷の優先的利益獲得を位置づけようとした平安時代より、明の皇帝によって海禁政策が敷かれ、冊封した…

史料◎2に書かれた、「海島の間に漂流していた人々」という部分が気になりました。当時はどれくらいの明の人々が、日本へ漂流してきていたのでしょう?

倭寇の活動によって、往来する船が被害を受けて乗船者が漂流せざるをえなくなったり、海上や海岸で捕らえられ日本へ連れてこられた人々がいたものと想定されます。捕虜の交換に近いものといえるかもしれません。

足利義満は「准三后という称号を与えられ、対明の国書にも使用していますが、これはそもそも皇后などの女性に与えられる称号です。藤原良房も、かつて同じ称号をもらったといいますが、なぜ女性の称号なのでしょうか。

准三后は准三宮ともいい、太皇太后・皇太后・皇后の三宮(三后)に准じて、皇族・公卿・僧侶らへ年官・年爵・封戸などを与え、経済的に優遇することをいいます。実は、貞観13年(871)に摂政藤原良房が、年官・随身兵仗・封戸を三宮に准じて賜与されたのが初…

義満が国書を何度も明に送った際に、明の形式に則ったものではなかったため無礼であったとありましたが、明の求める形式というのは禅宗の僧侶の経由で知るのでしょうか? / 文章の書き方などで、日本と明が違うことは文化の相違で分かるのですが、漢字が伝わってから時間が経つと、少しずつ意味が違ってきてしまうということはないでしょうか(漢字であれば手紙でも意思疎通は可能なのかということです)。

明の定めた律令、礼法などに規定されているものですが、禅僧が外交使節として活躍していた時代にあって、やはり明と交渉のある禅僧らに協力を求めた可能性が高いでしょう。文化が伝播・定着を繰り返すなかで文字レベルで認識が変化することは、往々にしてあ…

当時の懐良親王は、未だ皇子であって天皇ではありません。どうして明は、そんな彼に「国王」の称号を与えたのでしょうか。

これも懐良の具体的な交渉のあり方によることでしょうが、恐らくは南朝の失墜を前に(南朝の天皇は自分の甥の長慶天皇となっていた)自らの即位を希望していたか、南朝による京都の回復を断念し九州を独立王国にしようとしたかのどちらかでしょう。なお、交…

現在、外国からの使者を殺害してしまったら大問題になりますが、懐良親王は明の冊封体制下に降ったのち、それについて咎められることはなかったのでしょうか?

滅びてしまった懐良親王側の史料が残っていないため分からないのですが、恐らく、不利な条件のもとで冊封を受けなければならない情況に立たされたと思われます。明側の主要な目的は倭寇の禁止にありましたが、そのことは、倭寇の一部を勢力に入れつつ北九州…

当時の人々は、どこまで「日本」や「天皇」への帰属意識があったのでしょうか。「日本人」という自覚はあったのでしょうか。

中世においては、例えば仏教による三国伝来史観(仏教が天竺、中国、日本と伝来し、日本こそが仏教の最終目的地であるとする考え方)、元寇など対外的脅威による神国思想によって、古代に比べ、比較的広い階層に「統一的な日本のイメージ」が定着し始めたと…

近代に近づけば近づくほど中国という国の存在感は希薄になると思うのですが、なぜ今日の授業でみたような時代には、中国との関係が大きなキーワードになるのでしょうか。これは、同じ頃の朝鮮半島の国々にもいえることなのでしょうか? 小学生の頃から歴史を習っていますが、中国は漠然と大きな存在であるのか教科書には載っておらず、大変不思議です。日本もかなり高度な文明が発展していたと思いますが、国の小ささや歴史の深さが中国より小規模だから、重要度が低いのでしょうか。

高校時代、世界史は履修しましたか。アジア世界においては、古代文明の発祥以来、政治的にも文化的にも、中華王朝が非常に大きな勢力を保持してきました。ユーラシアの東部において中華王朝に隣接する諸民族、東南アジアの一部や朝鮮半島、海を隔てた日本な…

徳川家康は自ら源氏を名乗り、足利氏の北朝を支持する立場にあったとのことでしたが、徳川御三家の水戸藩がなぜ家康とは異なる立場を正統としたのでしょうか?

『大日本史』は、上にも書いたとおり、北畠親房の『神皇正統記』を受け継ぐ勤王史観に立つ史書です。それだけでは徳川幕府の正当性/正統性を傷つけることにはならず、むしろ天皇の神聖化を図ることで、それにより政権を委任されている幕府の権威拡大を狙っ…

足利氏は天皇を排斥したとのことだが、国王の称号は国内で一番偉い人という意味では使われていないので、排斥したとまではいえないのではないか。南朝は天皇家の血筋を引いているのだし、南北朝から室町時代になっても天皇は存在したのに、「天皇を排斥した」とされた足利氏の評価には、明治政府の思惑があるのではないかと考える。

ちょっと誤解があるかもしれません。鎌倉幕府を打倒し天皇親政を行った後醍醐天皇に対し、最終的にこれを廃して新たな天皇を立てたのが足利尊氏の勢力です。後醍醐は尊氏らに攻められ、この新たな天皇(光明天皇)に譲位することを渋々承諾します。しかし、…

最近ニュースで、今後の日本史の教科書で、「坂本龍馬」や「武田信玄」などの、歴史的にも有名な人物たちが消えると放送されていましたが、先生は、それらの人物が教科書から消えるかもとなった場合、その判断は妥当と思いますか?

この発表を担った高大連携歴史教育委員会には、知人が多くいます。メディアでの報道は多く誤報道、ミス・リードがあるので、正確な情報を知りたい場合には下記のホームページへアクセスしてみてください。なお、同委員会の意図としては、歴史の授業や入試が…

先生は北條氏の子孫だと伺いましたが、お宅に古文書などあったりするのでしょうか?

何度か焼き討ちにあったり、火災で焼失したりしているので、古文書は徳川家光による寺領安堵の朱印状の写しなどしか残っていません。ただし、仏具である楽器の磬や聖観世音菩薩像など、南北朝や室町にまで遡るものは、少ないながらも所蔵しています。

『平家物語』については古典の授業などでよく取り扱われますが、『太平記』をあまりみないのは、現代でも皇国史観的バイアスの名残があるということなのでしょうか?

恐らくそうだろう、と思います。NHKの大河ドラマでも、この題材はなかなか取り扱うことができず、1991年の『太平記』のみしか作成されていません。