2010-12-01から1ヶ月間の記事一覧

老婆の履いた高下駄は排泄のためのもの、との説がありましたが、当時の民衆たちはどこで排泄をしていたのでしょうか?

公的場所である往来では憚られたでしょうが、少し外れた野原や通りの隅では普通に排泄がなされていました。水路にも様々な汚物が廃棄されていましたし、人や獣の死体が通りに打ち捨てられていることもあったので、平安京の悪臭は大変なものであったと思われ…

高畑勲が指摘したというカットバックですが、あれは結局一種の異時同図なのですか。

門を境に異なる場面転換が起こり、異なる構図になっていると考えればカットバックではありません。門を中心に左右を同図とみた場合、カットバック的な異時同図と捉えられるでしょう。

後白河のサロンの人々は、『伴大納言絵巻』をみて、描かれたこの人物は誰だとか、これは異時同図だとか、現在と同じような解釈はできていたのでしょうか。絵巻が完成したとき、執筆者によるお披露目などは行われたのでしょうか。

勅撰の書物等は多く献上の儀の類が行われていますので、絵巻の場合も、画師による説明を冠したお披露目の儀式は開かれたと想像されます。とくに、後白河が注文を付けたものであれば、それがきちんと果たされているか、どういう形で実現されているかなどの確…

彩色の剥落は指を指すなどの行為の結果であると学びましたが、このような絵巻はどう保存されていたのですか?誰もが簡単に閲覧できたのでしょうか。

後白河のサロンで作成された絵巻の場合は、やはり彼らが読むべきものだったと思われます。当該サロンのなか、一人もしくは複数で語らいながら読まれたのでしょう。指さしなどが行われたとすればその折のもので、そこから傷みが進み、湿気や経年変化にさらさ…

絵巻が傷んだからといって、丸ごと切り取ってしまうものなのでしょうか。

やはりそれは特異なことでしょう。それゆえに、詞書きの丸ごとの欠損や無理のある繋ぎ合わせ、頭中将の全体的切り取りなどに、政治的な理由が垣間見えるのです。いずれにしろ、この「受容史」については今後の検討課題でしょう。

伝統的解釈では「悲嘆」を表すとされたものが、近年、一部にせよ全く正反対の解釈をされるようになったのはなぜなのでしょうか。

文献史料においても、時代によって同じ書物や記録の解釈が180度転換するということはあります(例えば、近年の『日本書紀』批判などを参照)。しかし、絵画の場合はより抽象的・象徴的なので、解釈に委ねられる幅が大きく、そのため文献史料以上に大きく位置…

絵に描かれたことは史実の証明になるのでしょうか。

絵巻に関していえば、例えば『伴大納言絵巻』のようなものの場合、それが扱っている応天門の変に関して確たる史料になるかといえば、それは無理でしょう。時代を隔たった300年余り後に、その時代の解釈・感覚で、また史実を明らかにするのとは別の目的をもっ…

赤や青、緑といった顔料は何から作るのでしょうか。

やまと絵の顔料は、天然の石や貝殻を砕いて作った粉を、動物の皮や骨を煮て作る膠で溶いて使います。青は岩群青(藍銅鉱 アズライト)、緑は岩緑青(孔雀石 マラカイト)、赤には辰砂(硫化水銀)が用いられます。

大臣以上の人間には鉛白、それより下は白土というのは、通例で決められていたことなのでしょうか。 / 顔料の相違など、当時の人々は目で観て分かったのでしょうか。

鉛白/白土の使い分けは、通例として決まっていたわけではありません。『伴大納言絵巻』のオリジナルでしょう。彩色がきちんと残っていれば、白土はやや褐色がかっているように、鉛白はより白くみえます。どの顔料を使っていたかはともかく、肉眼で区別する…

清涼殿の廂部の昆明池障子ですが、このように細部まで描けたのは、やはり後白河院のサロンに属する絵師だからでしょうか。

常磐光長は、最高位従四位下・刑部少輔で昇殿はできました。それ以前は宮廷の画所で絵画制作に住持していたものと思われます。『年中行事絵巻』も光長の作品といわれていますので、彼のもとには多くの資料があったでしょうし、また肉眼で確認することもでき…

絵巻のサイズや一紙あたりの大きさはとくに統一はされていなかったのですか。

宮廷で使用されている紙は、図書寮所管の紙屋院で漉かれていましたので、ある程度の規格は定められていたと思います。しかし、律令や『延喜式』にも、供給量の規定はあるにもかかわらず、寸法の規定はありません。現存する紙の状態から考えると、1尺×1.6尺程…

詞書が意図的に抜き取られたということはないのでしょうか? / 蛍光X線分析で、他にも分かるようになったことはありますか?

これについては、次回以降の講義で詳しくお話をしてゆきます。

次回の試験は、もともと期末試験に予定されていた内容ですか?

まだしっかり予定を立てていません。ただし、『伴大納言絵巻』を用いて紹介した事柄が、まったく試験に出ないということはないでしょう。

応天「門」という境界を焼くということは、何か深い意味があったのでしょうか。

何者かによって放火されたのだとすれば、その放火という行為、あるいはその焼失という現象自体に、古代的な意味が付与された可能性はあります。中世史の特講をお願いしている中澤克昭先生にも、「自焼没落とその後―住宅焼却と竹木切払」(『中世の武力と城郭…

門は二層の場合、上層は探題のような機能を持っていたのでしょうか。また、平城京は一層だったとの説があるとのことですが、それは二層の必要がなかったということでしょうか。

楼閣建築の門には、仰るとおり、索敵や防備のための「櫓」としての機能があります。ただし、常に戦乱のなかにあった中国の都城に比べ、日本の宮城は権力の荘厳、権威の誇示により力点が置かれていたものと思われます。奈文研の清水重敦さんの単層説はまだ論…

『宇治拾遺物語』で、藤原良房が兵衛府のある朔平門に行っていますが、大内裏図には他にも兵衛府の建物がみえます。別々のものなのでしょうか。

朔平門には、兵衛の詰所としての北の陣があるということです。殷富門の南にある右兵衛府は役所の建物なので、単なる詰所ではなく、機関としての兵衛府を運営するための事務機構なども置かれています。

検非違使の様子を初めてみましたが、普通の武士と区別してそれと分かるような恰好(甲冑など)をしていたのでしょうか。 / 検非違使が行う路次清掃には、どのような道具が使われたのでしょうか。

検非違使の容姿については、特別な着物、甲冑等を着けていたということはありませんが、二条良基『百寮訓要抄』、北畠親房『職原抄』などの書物によると、容儀や富貴のことが別当の条件であったようです。この「容儀」の問題については、丹生谷哲一氏が、断…

『信貴山縁起絵巻』に比べると、デッサンや動きは細かいですが、すやり霞や逆勝手のような場面転換に乏しいと思います。今回観たところだけなのでしょうか? あるいは、画力の問題なのでしょうか?

これからみてゆくなかには、異時同図法や逆勝手、すやり霞も使われていますが、確かに『信貴山』ほど劇的・効果的な使われ方ではないかも知れません。題材にもよるのでしょうが、『伴大納言』は絵でみせる絵巻、『信貴山』は構成でみせる絵巻といっても過言…

『伴大納言絵巻』には下書きがないとのことですが、絵巻における下書きとはどのようなもので、どんな道具を使ったのでしょうか。

道具はもちろん筆ですが、顔料は白色のものを使用しました。日本画の手法としては、「胡粉」を用いるのが一般的です。貝殻を用いた白色顔料で、加工もしやすく、使いやすかったのでしょう。下書を「粉本」と呼ぶ語源でもあります。「胡」は、中国からみて西…