2011-01-01から1ヶ月間の記事一覧
【平均点(最高点)】 35.07(47)【模範解答】1-問1……A)伴善男。足に浅沓を履いておらず、清涼殿にて天皇に源信を讒言した後とみられる。炎上する応天門から逆勝手に現れ、後ろ姿で描かれている点も事件の中心をなす人物との演出である。顔の顔料が白土…
【場所・時間】 Loyolaで確認してください。混乱が生じるといけませんので、ここでは掲示しません。【試験範囲】 前回中間テストの続きですので、『伴大納言絵巻』から『六道絵』までとします。前者を中心に出題します。いずれも絵画をみて考える問題となっ…
たいていは夜明けまで(日の出、もしくは一番鶏の鳴く頃など)、ということでしょう。しかし、不思議な出来事が起きる時間帯の設定というのは、文化によって様々に差異があり面白いものです。例えば日本では、黄昏時のことをオオマガトキ(大禍時・大凶時・…
シャーマンがシャーマンとして覚醒するまでのプロセスを「成巫過程」、それが神話・伝承化したもの、あるいはライフ・ヒストリーとして聞き取られたものを「成巫譚」と呼びます。冥界訪問などのモチーフは、多くこの「成巫譚」に現れます。不勉強なのであま…
それは極めて限定された意見ですね。下19の舎利菩薩あたりを敷衍したのでしょうが、中41などには、蛇と交接して蛇の子を産み落とす妄愛の女性も描かれています。『霊異記』が、女性を清浄化して描いているとはいえません。
六斎日には、戒律の遵守と懺法が行われますので、これは意図的に日にちを設定したものでしょうね。『霊異記』に同様の表現が出てくるのは、これらを踏襲したものです。
仏教は、六道のなかで生きること自体を「苦」と捉え、その根源に様々な煩悩の作用を見出します。現世の人、物、その他形のない種々の想念に執着するのもそれゆえで、いつかは失われてしまうそれらを引き留めておきたい、しかしそれが叶わないところに苦しみ…
習得するのが大変かどうかは、個人差があるでしょう。情報過多で注意力散漫になりやすい現代人は、次々と浮かび来る妄念を統御し精神状態を一定に保持するのは、なかなかに困難なのではないかと思います。瞑想修行は大乗だけでなく部派仏教でも行われます。…
平安京の側溝や賀茂川などには、死体が集積されたとの記録が残っています。7世紀末頃には成立したと思われる「大祓祝詞」は、罪や穢れが根こそぎ切り除かれ、川から海へ、そして黄泉国へと送られる文脈になっています。何か日本人の浅薄な環境思想が見え隠…
死体の遺棄は「捨身行」という自己犠牲の布施行に結びつきますので、そうした観点から望んだ人はいたでしょうが、現実に実行した天皇、貴族がいたとの記録はありません。嵯峨天皇や淳和天皇は散骨をしていますし、浄土真宗の開祖親鸞などのように、「死んだ…
仏教は現世への執着を解消しようとしますので、死体に執着し、可哀想だとか、あるいは祟られるからといった理由で埋葬を勧めることはありません。むしろそれは煩悩の発露、迷いの結果であると考えるのが、本来の仏教のあり方でしょう。近世の檀家制度によっ…
火葬は文献的には7世紀末〜8世紀初めにかけてで、行基の師匠ともいわれる道昭、天皇では持統天皇が最初です。しかしそれ以降ずっと火葬が続いたかというとそうではなく、時代情況とともに変転が繰り返されました。平安時代中期には、遺言によって火葬/土…
儒教的世界観では、本来、身体は祖先の遺体なので損壊してはならないという思考が顕著でした。しかし現在の中国、韓国における整形手術の流行をみると、かかる思想のありようは表層的であり、結局人々に「身体化」するような形で浸透してはいなかったのかも…
ここに語られる「中有」は、『倶舎論』に説かれる「四有」のうちのひとつですね。「生有」=どこかに生を得るその一刹那、「本有」=生まれてから死ぬまでの存在、「死有」=生を失うときの最後の一刹那、「中有」=死んでから生まれ変わるまでの中間的存在…
アフガニスタンやキジルなどに、「観骨相図」と呼ばれる石窟壁画が残っています。僧侶が人骨をみつめる図像で、主に石窟における瞑想修行に用いられたと考えられています。中国でも、唐宋時代に「観壁画九想詩」と呼ばれる詩文が残っており、同じような瞑想…
確かに、日本に残っているものはほとんど女性を対象にした図柄となっています。むしろ、私は男性の九相図はみたことがありません。講義では少々口が滑ってしまいましたが、『往生要集』では、九相観の対象となる人体を「愛するところの男女」としていますの…
清和天皇の直接の血筋は息子の陽成天皇をもって絶え、皇嗣は叔父の光孝天皇へ移ってしまいます。その流れが後白河院まで行き着くわけですので、彼にとって清和は直接的な先祖ではないのです。歴代天皇が意識した「祖先」とは、皇統上「画期」をなす人物と、…
絵巻の描かれた12世紀末頃は、妻方同居から新処同居への発展型で家族の居住が行われていたと思われます。源信邸、伴善男邸とも、新処同居の形式とみてよいでしょう。ただし、信も善男も妻が誰であったか分かりませんので、史実としてどのような婚姻形態、居…
上巻の朱雀門等の場面もそうでしたが、基本的に白色顔料を用いて線を消し、その上からあらためて描いているようです。下巻のうずくまる下僕の場面は、少々彩色が剥がれたことによって、消した以前の線も透けてみえてしまっているようですね。