2010-01-01から1年間の記事一覧
公的場所である往来では憚られたでしょうが、少し外れた野原や通りの隅では普通に排泄がなされていました。水路にも様々な汚物が廃棄されていましたし、人や獣の死体が通りに打ち捨てられていることもあったので、平安京の悪臭は大変なものであったと思われ…
門を境に異なる場面転換が起こり、異なる構図になっていると考えればカットバックではありません。門を中心に左右を同図とみた場合、カットバック的な異時同図と捉えられるでしょう。
勅撰の書物等は多く献上の儀の類が行われていますので、絵巻の場合も、画師による説明を冠したお披露目の儀式は開かれたと想像されます。とくに、後白河が注文を付けたものであれば、それがきちんと果たされているか、どういう形で実現されているかなどの確…
後白河のサロンで作成された絵巻の場合は、やはり彼らが読むべきものだったと思われます。当該サロンのなか、一人もしくは複数で語らいながら読まれたのでしょう。指さしなどが行われたとすればその折のもので、そこから傷みが進み、湿気や経年変化にさらさ…
やはりそれは特異なことでしょう。それゆえに、詞書きの丸ごとの欠損や無理のある繋ぎ合わせ、頭中将の全体的切り取りなどに、政治的な理由が垣間見えるのです。いずれにしろ、この「受容史」については今後の検討課題でしょう。
文献史料においても、時代によって同じ書物や記録の解釈が180度転換するということはあります(例えば、近年の『日本書紀』批判などを参照)。しかし、絵画の場合はより抽象的・象徴的なので、解釈に委ねられる幅が大きく、そのため文献史料以上に大きく位置…
絵巻に関していえば、例えば『伴大納言絵巻』のようなものの場合、それが扱っている応天門の変に関して確たる史料になるかといえば、それは無理でしょう。時代を隔たった300年余り後に、その時代の解釈・感覚で、また史実を明らかにするのとは別の目的をもっ…
やまと絵の顔料は、天然の石や貝殻を砕いて作った粉を、動物の皮や骨を煮て作る膠で溶いて使います。青は岩群青(藍銅鉱 アズライト)、緑は岩緑青(孔雀石 マラカイト)、赤には辰砂(硫化水銀)が用いられます。
鉛白/白土の使い分けは、通例として決まっていたわけではありません。『伴大納言絵巻』のオリジナルでしょう。彩色がきちんと残っていれば、白土はやや褐色がかっているように、鉛白はより白くみえます。どの顔料を使っていたかはともかく、肉眼で区別する…
常磐光長は、最高位従四位下・刑部少輔で昇殿はできました。それ以前は宮廷の画所で絵画制作に住持していたものと思われます。『年中行事絵巻』も光長の作品といわれていますので、彼のもとには多くの資料があったでしょうし、また肉眼で確認することもでき…
宮廷で使用されている紙は、図書寮所管の紙屋院で漉かれていましたので、ある程度の規格は定められていたと思います。しかし、律令や『延喜式』にも、供給量の規定はあるにもかかわらず、寸法の規定はありません。現存する紙の状態から考えると、1尺×1.6尺程…
これについては、次回以降の講義で詳しくお話をしてゆきます。
まだしっかり予定を立てていません。ただし、『伴大納言絵巻』を用いて紹介した事柄が、まったく試験に出ないということはないでしょう。
何者かによって放火されたのだとすれば、その放火という行為、あるいはその焼失という現象自体に、古代的な意味が付与された可能性はあります。中世史の特講をお願いしている中澤克昭先生にも、「自焼没落とその後―住宅焼却と竹木切払」(『中世の武力と城郭…
楼閣建築の門には、仰るとおり、索敵や防備のための「櫓」としての機能があります。ただし、常に戦乱のなかにあった中国の都城に比べ、日本の宮城は権力の荘厳、権威の誇示により力点が置かれていたものと思われます。奈文研の清水重敦さんの単層説はまだ論…
朔平門には、兵衛の詰所としての北の陣があるということです。殷富門の南にある右兵衛府は役所の建物なので、単なる詰所ではなく、機関としての兵衛府を運営するための事務機構なども置かれています。
検非違使の容姿については、特別な着物、甲冑等を着けていたということはありませんが、二条良基『百寮訓要抄』、北畠親房『職原抄』などの書物によると、容儀や富貴のことが別当の条件であったようです。この「容儀」の問題については、丹生谷哲一氏が、断…
これからみてゆくなかには、異時同図法や逆勝手、すやり霞も使われていますが、確かに『信貴山』ほど劇的・効果的な使われ方ではないかも知れません。題材にもよるのでしょうが、『伴大納言』は絵でみせる絵巻、『信貴山』は構成でみせる絵巻といっても過言…
道具はもちろん筆ですが、顔料は白色のものを使用しました。日本画の手法としては、「胡粉」を用いるのが一般的です。貝殻を用いた白色顔料で、加工もしやすく、使いやすかったのでしょう。下書を「粉本」と呼ぶ語源でもあります。「胡」は、中国からみて西…
とにかく神聖性を表す記号なんですね。例えば英雄や構想が誕生する際に、屋敷の上に五色の雲や紫雲がたなびく、という逸話は枚挙に遑がないほどみられます。
夢に政治性が表れる、夢が後の知識や利害関係によって表現しなおされる、という問題は確かにあります。しかし『蜻蛉日記』の場合、夢は最終的に出家をしてゆくまでの道標なので、宗教的な観点からある程度真実味をもって表現されているとみていいでしょう。…
夢に神意をみる伝統は、東アジアの歴史資料では殷代の甲骨卜辞から確認できる、極めて古いものです。周代には天意を確認し王にサジェスチョンを与える占夢の官も存在し、戦国時代に至るまで活躍しています。秦漢前後から政治的価値は弱まりますが、道教では…
大仏と一対一の関係で繋がれるため、参籠は独りで行ったとするのが内的な解釈でしょう。物語の展開から考えると、参籠以降の場面は大仏対尼公、命蓮対尼公の構図で描いた方が間違いなく効果的で、そこへ従者が入ってくると読者の注意力が散漫になってしまう…
いやあ、これはどうなんでしょうかね。確かにぼくも疑問に思っていたのですが、動きを示す技法なのか、彩色が禿げてしまったのか…。恐らくは前者だろうと思います。大仏殿の悠久性・不動性を前提に考えると、ちょこちょこと動く尼公が描線のみで表現されてい…
これは解釈が難しく、また面白い場面です。陰・陽の石からなる道祖神が、それぞれ尼公と翁の傍らに配され、性の問題を暗示していることは間違いないでしょう。それと柳との関係ですが、祠があること、老木であること、立っている場所が衢(交差点。古代の代…
内容は前回お話ししたとおりです。時間は60分、持ち込みは、自筆のノートのみ認めます。講義で配布したプリントは持ち込み禁止。基礎的事項の確認ですので、あまり力まず落ち着いて取り組んでください。
これは、東大寺からみて信貴山が南西にあったことに拠ります。南西であること自体に特別な意味づけ(例えば陰陽道的な裏鬼門など)はないと思われます。
飛倉の切れ端については、まったくないとはいいきれませんが、樹木信仰のみを強調して語ることはできないでしょう。神聖さの起源が樹霊にあるのではなく、それが命蓮の奇跡譚に連なるという彼の法力にあるからです。恐らく倉が石造であっても、また粘土造で…
やはり説得的な物語を生み出すためには、プロデューサー・演出家としての審神者が重要でしょう。彼がいなければトランスも意味をなしませんし、憑坐はただの変人、もしくは病者として社会から排除されてしまいます。しかし、憑坐のトランスが真実味を持たな…
奈良時代以降、民間に多くのシャーマンがあり、また下級の僧侶たちが活躍していたことは、それらを禁止する法令や説話集などにみることができます。駆り移しの厳密な手法が用いられていたかどうかはともかく、憑坐と審神者のユニットは通時代的・世界的な広…