日本史概説 I(10春)
ポイントは4点あります。まず1点目は、講義の内容が踏まえられているか。別に私の話に賛成しろといっているわけではなく、批判であってももちろん構わないわけですが、ちゃんと講義を聞いて理解していることを示してほしいわけです。例えば、まず「はじめ…
ひとりの著作だと偏りがありますので、下記のシリーズを読んでみてください。研究入門の巻などもありますし、日本仏教の多彩なありようを分かりやすく理解できます。日本仏教研究会編『日本の仏教』第1期1〜6・第2期1〜3、法藏館
遅くなってすみません。残念ながら、一般向けの分かりやすい本というのはあまりないのです。専門的な論文集になりますが、ヒントになりそうなものを少々挙げておきます。斎藤正二『日本的自然観の研究』1〜4、八幡書房、2001〜2006年増尾伸一郎・工藤健一…
日本も平安期に科挙を導入していますが、その効力を充分に発揮できないままに廃止されました。理由のひとつは、日本の律令国家が畿内政権の様相を呈していたためです。すなわち、大化前後よりの伝統的畿内豪族が、律令制というシステムを用いて、諸国を支配…
観音菩薩に対する信仰で、所依経典は『法華経』、もしくはその一篇 観世音菩薩普門品を独立させた『観音経』です。観音菩薩は、修行の階梯を経てすでに如来となる実力を備えているにもかかわらず、生身の肉体を持っていた方が衆生を救済するには便利であると…
当時はまだ、「神道」なるものは存在していません。共同体祭祀を国家が天皇・神祇官のもとに体系化した天神地祇、それを運営する神官の制度があったに過ぎません。当時の主要神社は、宇佐八幡宮が行った「天下の諸神を率いて大仏造営を助ける」という護法善…
そうですね、とくに東大寺大仏の存在は重要でした。天平勝宝4年(752)6月丁酉には、来日した新羅使の金泰廉らが、一切経の納められた東大寺で大仏を礼拝しています。大仏の建設時には宇佐八幡が託宣を下し、諸神を率いて協力すると申し出た神仏習合の事例…
これも難しいですね。ただし、壬申の乱は奈良王朝建国の神話ですし、『日本書紀』は多くの官人たちが学んでいたはずです。未だ『万葉集』は編まれていませんが、壬申の乱を歌った万葉歌も存在しました。貴族層はもちろん、付き従った官人たちのなかにも、そ…
いい質問ですね。確かに、『続日本紀』のどこを探しても、聖武天皇が天武天皇の後を辿ったとは書いていません。しかし、行程をみると間違いなくそれは事実で、広嗣の乱という戦争の最中であったことをみても蓋然性は高いと思います。となると、『続日本紀』…
特定の地域では、「よくある」とまではいいませんが、「聞く話」ではあったのでしょう。良弁との関わりでいえば、ちょっと興味深い事実があります。天武朝に飛騨国へ漢方薬の白朮採取に派遣された益田直金鍾という人物がいるのですが、彼の本貫である飛騨国…
鷲は、世界中で一般的にみられた最大の猛禽のひとつですので、人間の子供をさらってゆくには、大きさ・強さとも最も自然であるとみられたのでしょう。実際にそうした事件があったのかも知れません。しかしその根底には、例えばアジアの穂落し神やヨーロッパ…
詳しくは、拙稿「良弁の出自と近江国における活動」上(『芸林』46-2、1997年)を参照していただきたいのですが、良弁の出自には、大別してa)相模国・漆部氏説、b)相模国・百済氏説、c)近江国・百済氏説の3種があります。それぞれ典拠となる文献を精査し…
確かに大きなきっかけには違いありませんが、彼らの力はそれのみに限定されるものではなかったでしょう。玄昉は真備と並んで当時最新・一級の知識を持った人物でしたから、諸兄のブレーンとしては適任であったと思われますし、良弁も無名の僧侶から出身して…
うーん、いちばん人口に膾炙しやすい俗説の類ですね。例えば道鏡と称徳天皇が肉体関係にあったとする話も、早く奈良末期〜平安初期には出てきますから、どの時代、どの世界においてもこの手のゴシップネタはうけるんでしょうねえ。しかし、史料的根拠はまっ…
憑童は童子、憑坐は童子もしくは女性で、ともに霊を乗り移らせる容れ物です。しかし、これは単なる受動的な容器ではなく創造的な容器であり、霊は憑坐につくことで初めて我々に理解できる言葉を発するのです。ただし、それは文脈や論理がうまく通っていない…
「入れ込んだ」のが客観的にどういうことなのかは考える必要がありますが、確かに、宮廷における内道場の位置、後宮女性たちと看病禅師との関係に、一定のラインが引かれていたとはいえるかも知れません。身分の上下については、例えば宮廷内における役割を…
百済系、新羅系の渡来人たちが多く関わっていました。ただし、彼らが日本へ渡来してきたのは5世紀後半〜6世紀初にかけてで、8世紀の行基の頃には列島へ土着して数世代を経た人々だったことになります。彼らの知識や技術は、飛鳥時代以前には大変もてはや…
エジプトは関係ありません。インドや東南アジアのストゥーパは土まんじゅう型ですので、それがモデルになったのではないかと考えられています。ただし、そこに瓦を葺くというのは斬新な発想です。ちなみに土塔の建った大野寺は土師氏の氏寺として建てられた…
僧侶は生産活動に従事しませんので、基本的に国家に支払えるものを持っていません。そのかわり、宗教的実践を通じて鎮護国家に貢献することを求められたのです。
養老元年4月壬申詔の基本的なスタンスは、僧尼令という僧侶関係の法律を遵守させることにありました。乞食行に関する三綱への報告も同様で、各寺院の管理・統率者である三綱、仏教界全体の教導者である僧綱は、僧尼令に基づいて僧尼たちを教導する義務があ…
行基と類似の活動を展開した民間仏教者はありましたが、それらが反乱のような事件を起こすことはありませんでした。仏教では戦闘を忌避するのが基本的な考え方ですので、一向一揆などの方がやや特殊な発現の仕方であると思います。
そこは宗教的実践ですので、行基の信仰においては充分意味があったということでしょう。彼の思想的根拠についてはさまざまな議論がありますが、他者の救済のために尽くすという姿勢は大乗仏教の究極的理想ですし、そうした善行が自らの覚り、救済に結びつく…
当時、正史は国家が管理していましたので、後代に正統性をもって受け継がれてゆく史料は、圧倒的に国家の関連のものが多かったわけです。そこに「行基が大仏造営に協力した」と書かれていれば、その真実性は極めて強く受け継がれてゆきます。すなわち、民衆…
夢枕獏の小説は、史実や説話を題材にしていますが、それ自体は徹頭徹尾フィクションであると考えていいでしょう。岡野玲子の漫画も上記小説を原作としていますので同じですが、後半から段々と原作を離れ、スピリチュアルな方向へ向かってゆきます。一般の読…
畿内周辺における行基の人気は大変なものであったようなので、国家としては彼を登用し仏教界の頂点に据えることにより、仏教国家建設の諸事業に対し民衆や新興豪族の協力を得ようとしたのでしょう。事実、大仏造営事業等に対して多くの地方豪族が私財を投入…
行基集団を考える際、都市における大規模な乞食行を主要な活動として弾圧を受けたものを第一次集団、畿内各地で社会福祉事業を展開したものを第二次集団と捉える立場があります。両者は活動の内容はもちろん、集団の構造や組織性においても大きく異なってい…
当時の和泉や河内周辺では、複数の僧侶が民間で活動していたことが確認されており、なかには行基集団と競合する勢力もあったようです。しかし特筆すべきは行基の師ともいわれる道昭で、彼は唐へ留学して日本列島へ初めて一切経をもたらしたうえ、交通施設の…
当時の平城京周辺の交通路上では、都市造営の現場から逃亡した役民や、貢調運脚夫として上京しながら行路で疲弊した者など、多くの窮乏者がみえました。布施屋は、基本的にはそうした人々への治療や施食を目的とし、都市での大規模な乞食行はその財源確保の…
「額田王」は、額田氏に養育された王女なのでこのように呼ばれたのでしょう。血縁的繋がりはありませんが、額田王を受け入れていた一族が、道慈の出身氏族であったという可能性はあります。
僧綱は治部省玄蕃寮に所属し、僧尼名籍と寺院資財の管理、戒律による僧尼の教導や教学の振興、得度・授戒の手続関与などを行います。僧尼の統括が職務ですので、それ自身に政治的発現の権利は含まれていません。