日本史概説 I(16春)
歴史という物語り=ナラティヴは、詰まるところ、ツール以上でも以下でもありません。世界を把握し、現在と向き合うためのツールです。自分が正対しているさまざまな問題、課題が、どのように生起し、どのような情況にあるのか。将来、それはどうなってゆく…
朝廷の中心にいた貴族たちは、一方で国政を運営するために荘園整理を実施しつつ、一方では自らが巨大な荘園領主でもありました。彼らは地方の荘園の経営と、その収穫を中央へ輸送させるため、在地の有力者層を自らの配下に取り込んでいたわけですが、そのな…
授業でもお話ししましたが、古代の日記は、近代以降の、自分の一日の行動を書き留める、プライヴェートな意味での日記とは性格を異にします。とにかく、未来の自分の子孫たちが宮廷社会で生き残ってゆくために、あわよくば発展してゆくために、先例や有職故…
陰陽道の原型は中国の陰陽五行説で、日本においてはまず都の位置を定める風水の技術として展開しました。その後、天文・暦の知識・技術を集合させ、空間と時間の吉凶を知り、邪なものを斥け幸いを招き入れる科学体系として大成されてゆきます。天文・暦の知…
出家の意味するところは、平安時代を通じて次第に変わってゆきます。宇多天皇、花山天皇の頃には、出家は政治の表舞台から引退を意味していましたので、出家した天皇が直接政治に関与することはありませんでした。しかし、同時期から次第に〈入道〉の概念が…
充分説明する時間がなく、失礼しました。画期は、一条朝の藤原兼家です。当初未だ右大臣に過ぎなかった兼家の上席には、太政大臣頼忠、左大臣源雅信がおり、天皇の外戚であっても太政大臣にはなれませんでした。そこで右大臣を辞職して准三宮の詔を受け、皇…
上で少しお話しした平安時代の政策決定システムに、陣定と呼ばれる合議があります。最終的に天皇の決裁を受けねばならぬ重大案件について、議政官=公卿たちが、位階が低い者から順に見解を述べてゆき、大勢を決して天皇へ裁可を仰ぐ。最終的に天皇の存在を…
まず、授業でもお話ししたように、貴族の合議制の基盤が充分に整い、摂関家という天皇を代行するまとめ役が確立したことが前提です。それゆえに、政治判断、政策決定の場において、天皇の強大な権力を必要とすることが少なくなった。時間がなく説明できませ…
頻繁に交替しているようにみえるかもしれませんが、平安時代は391年、奈良時代は84年で4.6倍の長さがあり、天皇は奈良時代が8名、平安時代が33名で、統治機関はともに平均ほぼ10年であり、あまり変わらないのです。
上にも書きましたが、結局、国家権力を担っていた皇族や上級貴族たちが、大土地所有者でもあったことが原因でしょう。
大きな勢力を持つ皇族や貴族を指す言葉で、彼らが新興の富豪層らと結びつき、私有地としての荘園を拡大してゆきます。例えば荘園として最も巨大な規模を誇ったのは、父である鳥羽院のそれを継承した八条女院領で、これなどは皇族の領地です。荘園を「貴族の…
授業でもお話ししましたが、墾田は輸租田でしたので、私有の密に誘われて土地開発が進んでゆけば、国庫も充分に潤うはずでした。しかし、奈良時代末から社会階層の大規模な変動が起こり、旧来の豪族層が衰退する一方で新興の豪族層が力を蓄え、浮浪逃亡や偽…
上に答えてきたことからすると、遣唐使の停止云々は、交易には大きな影響を及ぼさなかったようです。情況としては、9世紀の半ば以降、唐物をめぐって、院宮王臣家や大宰府管内の富豪層が買い占めを行う情況が問題化していました。交易品については、律令(…
一般的には、寛平6年(894)、菅原道真の建議により遣唐使が廃止されたと理解されていますが、この件については断片的な史料が残るのみで、実はことの実相はよく判明していません。『菅家文草』巻9 奏状に収める、道真自身の寛平6年9月14日の上申には、…
ものすごく端折って説明してしまいましたので、分かりにくくて申し訳ありません。そうですね、奈良時代半ば以降、藤原四家の競合から北家が脱けだし、さらに北家のなかで幾つかの流派が競合して、最終的に兼家流が摂関家として確立してゆくという流れになり…
いわゆる皇親とは、親王・内親王以下四世以上の諸王を指します。彼らには、その位階や官職に応じて食封などの禄が授けられたほか、春秋の時服料なども支給されるなど優遇措置がありました。しかし、五世以下になると皇親とは認められず、六世以下は王号を名…
基本的な措置としては、まずその地域の租税や労役を免除することです。また賑給といって、食糧や衣料など物資の支給も行われました。被害が甚大な場合には、各地域からの報告だけではなく、朝廷から直接被害調査の使者が派遣され、それに基づく措置が取られ…
これもレジュメに書いたことの繰り返しになりますが、長岡遷都には、地政学的な意味で、水陸交通の結節点という利便性、淀川水系の交通に影響力を持つ秦氏の財政的援助、さらには新王朝創出の舞台として意識したことがあったのではないかと考えられています…
基本的に、造宮の役民は労役ですので、いうなれば租税であり、賃金は支払われません(もちろん、食糧は支給されます)。ゆえに平城京段階から逃亡が相次ぎ、路上で飢渇する人々も増加する情況でした。よって実際には、平安京を建設した山背葛野地域に本拠を…
古代都市=宮都は、社会的分業などの進展によって必然的に成立した都市ではなく、あくまで国家機能の中枢が置かれた場所です。よって、遷都の詔が出され、天皇が居を移して、百官の移転が完了した段階で「成立」と考えてよいのだろうと思います。もちろん、…
最初のガイダンスの際にお話ししたと思うのですが、中世後期から近世にかけてのアイヌは、ユーラシア北部から北アメリカに至る北方交易圏のなかで大きな富を得ており、国家に展開しうる社会・経済情況に到達していたともいわれています。なぜ国家化しなかっ…
プリントにも書きましたが、光仁朝から始まった蝦夷の反乱は、延暦20年(801)における征夷大将軍坂上田村麻呂の鎮圧作戦によって、蝦夷の首魁であった阿弖流為・母礼らが降伏し捕縛され、翌21年に胆沢城の造営と鎮守府の移設、翌々22年には志波城の造営へと…
蝦夷征討も度重なる造都も桓武王朝においては必要な政策だったのでしょうが、これが列島社会に大きな疲弊をもたらしてしまった。これを単に失策として中止するより、臣下からの諫言を受けて徳を示す方が、天皇の権威を昂揚させると考えられたのでしょう。以…
百済永継ですね。永継の父は飛鳥部奈止麻呂(河内国安宿郡)という渡来系氏族ですが、光明皇后の幼名は安宿媛であり、恐らくは藤原氏の子女の養育に当たってきたような氏族であったと考えられます。一般的には、内麻呂の妻となって真夏・冬嗣を産んだ後、桓…
まず、桓武天皇に関しては、衣服についても中国皇帝と類似のものを身に付け、王権正当化の方法としても、中国王権の祭祀である昊天祭祀を実施、革命を唱える『春秋穀梁伝』を導入しました。また、詩文を国家経営に役立てるという文章経国思想(魏の文帝曹丕…
上にも書きましたが、私欲で云々、というのは正しい理解とはいえません。また、道鏡はあくまで下野薬師寺に左遷になっているのであり、失脚ではあっても処罰されてはいません。あくまで、称徳の崩御により政治体制が大きく転換したゆえの措置であって、例え…
事件の記録は案外に短く、詳細はよく分かりません。正史『続日本紀』延暦4年(785)9月乙卯(23日)条には、「中納言正三位兼式部卿藤原朝臣種継、賊に射られて薨ず」、続く9月丙辰(24日)条には、「車駕、平城より至る。大伴継人、同竹良、并びに党与数…
宇佐八幡神託事件を過度に評価し光仁即位に革命性をみたこと、井上・他戸の位置を充分分析してこなかったことが原因でしょう。いずれにしろ、研究者の説の立て方によるもので、当時の正史『続日本紀』に、そのあたりのことが明記されていたわけではありませ…
出家・得度については厳しい制限がありましたが、還俗については、関連官庁への報告をしっかりと行えば、ある程度僧侶の自由意思に任されていたようです。出口より入口が厳しかったのは、僧尼身分が課役免除の対象となっていたからです(よって、還俗をした…
道鏡の個性については史料が少なすぎ、なかなか議論するのが難しいように思います。しかし、称徳の意向を忠実に実現しようとした人であったことは、間違いありません。悪人かどうかということは、多くの後世の政治的意図に基づく価値付けに過ぎませんので、…