日本史特講:古代史 II(07秋)

樹木伐採の際に「中臣祭文」が使われたとのことですが、わざわざその度に神官のような人を招いたのでしょうか。

樹木を伐る際に唱えられていたと思われる祝詞・祭文の類は、他にも幾つか見出すことができます。有名なのは『延喜式』神祇/祝詞に載る「大殿祭祝詞」で、木鎮めの技術を受け継ぐ忌部氏が樹霊を天皇居宅の守護神化するものなのですが、その前半部分は伐採時…

レポートで「物語における武器イメージ」を扱ったのですが、鎌足の鎌が死神の鎌に似ていると思いました。死神イメージは現代になって構成されたもので、もともとは裁判官のような役割だったのではないかと感じたのですが、先生はどう思いますか?

鎌を持った死に神のイメージは、恐らくタロット・カードあたりから普及するものでしょうから、日本においては現代的なものですね。ただし、その受け皿となった信仰、概念は中国に由来するものとして古代からあります。『霊異記』には、冥界から死期の迫った…

ダキニ法で用いられる式盤が、東南アジアでみるシヴァ神の象徴の石と似ている気がした。

シヴァリンガですね。あれは男性器と女性器の交合した形で、世界の誕生を表すものです。世界を象徴する点では式盤と同じ意味を持っていますが(風水思想においても、女性器と類似の形状を持つ地形こそが最も理想的な空間と考えられていますしね)、起源や機…

陰陽道と狐というと、私はやはり安倍晴明を連想するのですが、彼は藤原氏とも関わりが深かったそうですし、その出生に狐が関わっているのも何か関係があるのでしょうか。

安倍晴明が狐の子であるという話は、謡曲や浄瑠璃、歌舞伎の〈信太妻〉において語られます。原型となる人間と狐の異類婚姻譚は『霊異記』上2に確認できますが、それが晴明の出生と結びつくためには幾つかの段階が必要なようです。講義でも扱った鎌足の鎌を狐…

人間の世界と向こう側の世界を往復する狐の役割が面白いと思いました。『書紀』にも出てくる流星がなぜ狐を示すことになるのかよく分かりませんが、客星がよくないことを示すように、狐も悪いものを表したりするのでしょうか。

講義でもお話ししましたが、簡単にいってしまうとやはり〈境界〉的な存在なんでしょうね。狐は自然の森・山=野生と、人間の住む里=文明を往復する存在です。同様の現れ方をする鹿や猪が、農作物を食い荒らす害獣として駆除される一方、山神の使いとして祀…

とりいそぎ、「鎌足の〈鎌〉」の主要参考文献をアップしておきます。あまり多くはありません。

黒田智 2002 「「鎌倉」と鎌足」鎌倉遺文研究会論集編集委員会『鎌倉期社会と史料論』東京堂出版 2007 『中世肖像の文化史』ぺりかん社 中村禎里 2001(1994) 「鎌足と狐」同『狐の日本史』古代・中世編 日本エディタースクール出版部 深澤徹 2006(1996) …

背景として、当時の令外官について知りたいのですが、律令規定にはない彼らの創設理由、またなぜ「外」であり続けたのか教えてください。

「金科玉条」といわれるように、基本的に律令の条文自体は変更されません。しかし、律令に規定されている事柄は大まかなものにすぎませんし、元来中国王朝の法規定をほとんどそのままに継承した内容ですので、時代や社会に合わないことはたくさん出てきます…

当時の人々や後世の人々は、仲麻呂の描いた鎌足像をそのとおりに理解できていたのでしょうか。/『説文』では「史」を中正を持つ者と説明しているそうですが、仲麻呂の歴史叙述は中正とは思えませんでした。それも古代的な意味では中正といえるのでしょうか。

『周易』はそれなりに普及しており、知識を持った貴族は大勢いたでしょう。しかし、彼らに仲麻呂の意図が充分読み取れたかどうか、恐らくよほどの学者でなければ無理だったと思われます。これは、『家伝』が誰に向けて書かれたのかという問題、歴史叙述の性…

鎌足が三島に下野した理由は、『書紀』も「大織冠伝」もともに『周易』に依拠するのでしょうか。前者には『周易』にリンクする記述はないように思うのですが。

『書紀』は『周易』によるものではありません。この部分、「大織冠伝」が卦を持ち出しているのは、鎌足の神祇伯召命・三島退去をクーデター肯定史観より正当化する必要があったからで、山背謀殺を動機にしうる『書紀』はその時点で正当化がなされているので…

私は法学部で、歴史学のレポートといってもピンとこないのですが、歴史学の論文を書くうえで一番重要なことは何でしょうか。

とにかく史料を独自の視点で読み解き、新しい歴史像を構築することが論文の核です。そのためには、膨大な研究史の整理と批判のうえに立った問題点の指摘、史料批判の力、厳密な実証に裏付けられた想像力などが、研究主体に備わっていなければなりません。研…

参考資料として配付された『面部気色吉凶法』についてですが、顔にも気の流れがあるのでしょうか。また、それは法則的なものでしょうか。

詳しいわけではないのですが、五行や陰陽の思想はあらゆる占いの前提になっているので、相書の類にもそのように考える系統が確実に存在したということです。占いとはいえ、前近代的な意味ではひとつの科学ですから、そこには当然一定の法則性が設定されてい…

式盤の天盤部分の中心には北斗七星がありますが、どのような意味があるのでしょう。

北斗七星に数えられる星は、地域や時代によって変化があるのですが、やはり天の中心=北極星に連なる点が重要なのでしょう。北極星は天帝の座す星で、紫微宮などともいわれます。

古代において、歴史書などには動物がよく出現するように思います。当時は動物と共存していたから、あるいは特別な信仰心があったからだと思うのですが、その成り立ちや理由に興味があります。

ぼくも大いに関心があります。以前に「日本史概説」で話をしたときには、動物は人間にとって自然界の多くの情報を知るためのメディア(媒介)であり、自然のなかで生きてゆくためには必要なものであった。ゆえに現在でも、親は子供にぬいぐるみやペットを与…

史料3に流星についての話がありますが、当時の考え方では流星や彗星は不吉なものだったのでしょうか。

やはり「星が落ちる」「星が流れる」という現象だからでしょうか、世界的に不吉の象徴とする見方が多いようです。古代日本のそれは、多く『漢書』や『後漢書』の天文志の記述に基づいています。

『日本書紀』が正確な編年体ではないということに驚きました。日本の他の編年体の書物や、中国の史書にも、同じようなことがあるのでしょうか。

編年体に講義で紹介したような記事の配列があるのは、本来は錯簡ということで、原則から外れた例外的な状態になります。『書紀』の場合にそれが特徴的に認められるのは、やはり初めての中国的史書であるという混乱や、史料自体の産出・保管体制の不充分さか…

僧旻にしても南淵請安にしても、良家の子弟が通うような私塾を開いていたということですが、個人的に子弟の親から資金を集めて開いていたのでしょうか。

さあどうでしょうか。僧旻の私塾にしても請安の私塾にしても、いまひとつ実態がよく分からないのですが、公的なものでないとすれば月謝のようなものを集めていた可能性はありますね。あるいは、蘇我氏のような大豪族をパトロンに付けていたことも考えられま…

外来の僧というのは、渡来人と同じ扱いなのでしょうか。それとも、国の庇護下に入るのでしょうか。

原則的に令制では、日本に存在する人民は(国家が把握できなような漂白民、蝦夷など化外の民を除き)戸籍に編入されるわけですから、渡来人も(帰化したなら)公民と同じ扱いになります。一時的に寄留しているだけの留学僧、国家が招いた学問僧らは、治部省…

山背大兄の死が『書紀』と「大織冠伝」で違うのは、後者が蘇我の非道を強調しようとしたからでしょうか。

全体の文脈を通してみますと、実は『書紀』の方が、蘇我氏を中傷する記事(主に天皇に対する僭越な行為の数々)を多く載せています。「大織冠伝」の第四節では、蘇我氏は五巻末の暴臣董卓に準えられていますが、一方で入鹿の才能を高く評価する言辞もみられ…

鎌足は軽皇子の器量に疑問を持ったとありますが、度々逸る中大兄には疑問を抱かなかったのでしょうか。

「大織冠伝」の文脈は、諫言をする忠臣/広い度量で受け入れる名君、という君臣関係を描き出すために述作された虚構でしょう。君主の政は聴政といわれるように、家臣の言によく耳を傾け公正に判断することこそが重要なのです。ゆえに、逸る中大兄を描くこと…

蘇我氏の蔵の管理なども「宗業」に当たるのでしょうか。

倉山田家の宗業ということですね。蘇我氏の諸家は、分析を加えてみると、内政と総括を担う本宗家、外交・対外軍事を担う境部臣(阿倍氏の配下にあって境界儀礼を掌っていた境部を統括、阿倍・安曇氏などとの協力のもとで)、財政を管理する倉山田臣(斎蔵を…

仲麻呂に描かれた〈鎌足〉は、僧旻によって観られた〈爻〉の内容まで知っていたのでしょうか、「自愛せよ」の忠告だけで何かを悟ったのでしょうか。それとも、鎌足の自由意志に基づく行動が、たまたま結果的に乾卦に対応していた、というところが「大織冠伝」のミソなのでしょうか。

面白い質問ですね。次回お話しする三島退去の部分では、「大織冠伝」は鎌足が易筮を行い、出た卦に従って行動しているようにみえます。そこでは乾卦について語られてはいないのですが、彼が卦の内容について自覚的であった(と描かれている)ことがうかがえ…

「僧旻」が正式な名前だというのが印象的でした。僧侶にわざわざ「僧」の字を当てるのはおかしな気がするのですが。

僧旻虚構説が事実とすれば、なぜ道慈は大僧の名である「僧旻」を採用したのでしょうか。

そこがやはり解釈論になってしまう、問題点のひとつですね。ただし、仏教公伝から崇仏論争に至る流れもそうですが、『書紀』は、中国北朝・南朝の仏教史をモチーフに記事を述作している形跡があります。南朝の仏教国家梁において、皇帝を補佐するような高僧…

〈積善余慶〉言説の「言説」をどう理解したらいいのでしょう

discours(ディスクール)でいいでしょう。表層的内容、形式などには異同があっても、必ず易の坤卦の予言を内包する散文、程度に理解しておいてください。この場合、体制的構造を強化するというより、構造に組み込まれたテクストに訴えて新たな現実を構築す…

『春秋』には予言が含まれていると考えられていたとのことですが、それでは作者とされた孔子も予言をしていたのでしょうか。

孔子自身は予言をしなかったでしょう。彼は晩年『周易』も学んだようですが、あくまで宇宙の変化する理法を研究したものと考えられます。しかし、「快力乱神を語らず、で、孔子は論理的なものしか扱わなかった」という近代的解釈には反対です。儒教のなかで…

街などでみかける占い師のような人は、中国にも存在したのでしょうか。手の中に宇宙を作り出すとありますが、それを道端で行うのには不信感があります。

『史記』日者列伝によると、都市には、ト占を生業とする者が店を出す場所があったようです。戦国末期の「包山楚簡」からは、クライアントの将来の災禍を占いその対処法を提示する専門ト占集団の存在が推測されており、公以外のところでもト占職能者が活躍し…

筮儀を行う回数は明確に決まっていたのか。

殷代の亀トは、甲骨ト辞によると、例えば五回占って最もよい結果を採る、といった方法が実践されていました。殷代の末期には、三人で亀トをなし多数決で結果を決める三ト制が始まりますが、この方法は『尚書』洪範にも明記されて易へ受け継がれたようです。…

珂瑠皇子の帝王教育のため「善言」が集積されたとありましたが、具体的にどのような教育が行われたのでしょう。そのなかには占いも含まれたのでしょうか。

『善言』が関係するのは、中国的(儒教的)君主観に裏打ちされた徳を高めるための教育でしょう。善言とは仁・義・礼・智・信の五常、孝や忠といった儒教的美徳の表れた発言でしょうから、それらを勉強することで背景となる社会秩序、君主の役割を理解し、徳…

街でみかける易者も、今日のような方法で占っているのでしょうか?

基本的にはそうでしょう。ただし、近世以降易の方法も多様化していますので、現在の易の一般的な方法が何であるのかは知りません。私は、術者が人間として信頼がおけない限り、その人の実践も信用することができないので、商売としての占いからはどうしても…

大学で易が教授されたとのことですが、当時の官僚たちも占いをしていたのでしょうか?

吉備真備が子孫に家訓として残した『私教類聚』には、占いに耽溺してはならないとの戒めがあります。この書物は多く『顔氏家訓』を引き写したものですが、日本の社会に意味のないことを引き写しても仕方がないので、貴族の間でも易の流行があったと思われま…