日本史概説 I(15春)
うわあ、言い間違いですね。ご容赦を。
それは間違いありません。史料を深く読みこなせるようになるとだんだん分かってきますが、『枕草子』にしても『源氏物語』にしても、中国文化に根差した深い教養が随所に散りばめられています。漢籍を深く学んだことがある者でなければ分からない、多様なコ…
問題は、「独自」という表現の内実でしょう。例えばカナ文字ですが、確かにその成立と発展によって、ヤマト言葉の文学が大いに展開したことは間違いありません。しかし平仮名も片仮名も起源は漢字ですし、同様の文字の展開は韓国のハングル、ベトナムの字喃…
そんなことはありません。このアジアのなかで、日本だけが異常に衛生観念を発達させている現状を考えれば、現在でもケガレ観は充分機能しているといえるでしょう。神社や寺院を聖域化し、清浄な場所と認識する心性は全国的に強固ですし、葬儀の際に清め塩を…
検非違使の設置は、もともとは、左右衛門府の官人の特定の者に、京中の治安維持、不法行為の取締りを専当させたのが起源と考えられています。摂政や関白と同じく、本官がその職掌として定められた以上の職務を遂行できるよう、権限を拡大するような形で補任…
うーん、残念ながらそれは分かりません。しかし、同一人物について個々の史料で描き方が異なっているのは、その史料の書き手の主観、書き手と当該人物の関係のあり方などに基づきます。記録のあり方が多様であればあるほど、その人物が立体的に浮かび上がっ…
天皇の顔を描かない表現は、絵巻における「貴人の顔かたちをいかに描くか」という問題に起因するようです。絵巻には、庶民の顔は多く個性的・写実的に描かれていますが、貴人の顔はいわゆる引目鈎鼻で、高位のものほど抽象的に表されてゆきます。美術史研究…
確かに8世紀末、中国でも均田制が放棄され、資産額に基づき戸の等級を定め徴税をなす、両税法が開始されます。しかしこちらは、個別人心支配に基づく人頭税である点を放棄していません。日本の王朝国家が到達した。生産を行い収益の上がっている土地は、国…
律令では縁坐制が存在し、謀反・大逆・謀叛については、謀反大逆人の父子は没官のうえ官戸とされ、祖孫兄弟はみな遠流に処すものと規定されています。また、恣意的な運用も行われましたので、後顧の憂いとなるような芽は早くに摘み取っておくことが行われた…
頼通はなかなか娘に恵まれず、まず養女に迎えた姪の嫄子を後朱雀天皇の中宮としますが、彼女は皇女2人を儲けたものの、皇子を出産することなく24歳で産褥死してしまいます。続いて待望の娘 寛子が生まれ、後冷泉の中宮、次いで皇后宮となりますが、やはり皇…
確かに平安時代の宮廷社会では先例が重視されていましたが、支配層は決して自縄自縛になっていたわけではありません。授業でも説明しましたが、摂関全盛期の花山、一条、後朱雀などは積極的に新制を打ち出していますし、地方の反乱をはじめとする事態に果敢…
知的精神的に問題のある人間が皇位に即くことは、やはり国政に支障が出ますし、摂関が種々のトラブルに対処せねばなりません。よって、「瑕疵のない人物」が即位してくれる方が、実はリスクが少なくて済むのです。摂関時代前後で顕著な問題があったのは、主…
うーん、逆ではないでしょうか。冷泉天皇は幼少時より異常な振る舞いが多く、通常の政務を執れる人ではなかったようです。その第一皇子の花山天皇は、治世自体は兼家の陰謀により出家するまでの2年弱に過ぎませんでしたが、荘園整理令をはじめとする果敢な…
自らの外孫である天皇ならば、彼が閲覧する書類や報告書をすべて先に確認しうる関白・摂政の地位につけば、その意向をある程度自らの望む方向へ調整することが可能となるからです。後宮の支配と摂関の独占は、天皇の意図をコントロールするための両輪として…
授業でも少しお話ししましたが、摂関時代の天皇たちは、これまで考えられていたほど政治に無頓着であったわけでも、政治から締め出されていたわけでもありません。また、文徳・清和・陽成・一条などを除き概ね元服後に即位していますので、幼帝ばかりであっ…
身も蓋もありませんが、歴史過程のなかでの積み重ねの結果、といわざるをえません。桓武天皇は北家より恩人の百川がいる式家に親近していたようですが、すでに同朝末年には、冬嗣の父に当たる内麻呂が政権の首座を占めていたようです。桓武は、この内麻呂の…
平城京については、紫香楽から大仏造立を移管してきたために、その鋳造に用いる大量の薪炭材が付近に求められたこと、鉱毒が水路を通じて京内を汚染したことなどが指摘されています。もともと平城京周辺には、度重なる開発や都市生活のために樹木資源が減少…
もちろん、まったくゼロということもないでしょうが、桓武の晩年を早良の怨霊に悩まされていただけのものとするのも、過小評価です。もし本当に怨霊が怖かったのならば、早良を後援していた勢力が扶植する平城京に還都していたでしょう。長岡京や平安京は、…
これは少し難しい問題です。実は密教自体は、奈良時代にもすでに活用されています。しかしその時点での密教は「雑密」といい、真言宗や天台宗の「純密」とは違って、瑣末・実践的な呪術や加持祈祷を伝えるのみで、それを根拠付ける壮大な哲学体系を持ってい…
もともと仏教は、あらゆる生命に優劣を設定してはいません(しかし厳密にいうと、仏法を聞いて理解できる人間に、動物以上の価値を認めているのですが)。すべて生命は、その行為の善悪に応じて別の存在へ生まれ変わり死に変わりを繰り返す、ゆえに現在の姿…
格式の作成自体は、もちろん官僚が恣意的に進めてよいものではなく、上部公卿たちによる決裁が必要でした。よって、官僚集団が格式に基づき権力を任意に行使できたわけではありません。むしろ格式については、社会の現実と向き合って策定されたものが多く、…
当然、国税に基づく国庫から支出されているわけですが、度重なる造都で財源が不足している点は否めません。よって長岡京や平安京の建設では、それ以前の難波宮や平城京を構成した資材のうち、運搬・再利用可能なものは流用したことが分かっています。また、…
国家としては、中華思想の維持ということで一貫しています。新羅はそれを満足してくれなかった、日本のそうした姿勢を拒否したために決裂し、渤海はある程度満足できる対応をしてくれたため厚遇したわけです。しかし貿易については、国家の外交方針とはまた…
当時の政府からすれば、律令・都城・貨幣・国史を持つことが、中華的国家の条件であったと思われます。東アジアの「公式見解」としては、もちろん中華王朝は中国王朝のみに限られるわけですが、当時の東アジア諸国は、大なり小なりそのナショナリズムの発露…
桓武天皇は血縁的な弱さを抱えていたために、藤原氏の各家と緊密な姻戚関係を結んでゆきますが、それはある意味で貴族社会の一部をミウチ化し、それによって勢力基盤を確立しようとしたということになります。嵯峨天皇も同じ方策を採り、結果として多くの皇…
最終的な決断は天皇が行いますので、その教育係である実母、外戚などが重要な位置を占めることになります。また、前近代においては政治上極めて重要な意味を持っていた儀礼などは、天皇でしか行えないものが種々存在しました。幼帝にも種々の「働きどころ」…
もともとマツリゴトには政治的要素と宗教的要素があり、お互いがお互いの力・作用を必要としていたと考えられます。すなわち大王の段階で、政治的首長はある程度の神格化を含有していた。天皇になるとそれが一層進み、天上の神々と結び合わされ、地上の神々…
時代の流れは、なかなか意図的に作り出せるものではありません。あえていうならば、時代ごとの行為の積み重ねの結果だ、とするしかないでしょう。これは、個別の話というよりも歴史の考え方になってしまいますが、かつて、時代・社会構造を動かず人間の行為…