2014-06-01から1ヶ月間の記事一覧
通史として書かれたものは非常にたくさんありますが、講義が予定の時代を網羅できなかったことからも分かるように、分量的には厖大になってしまいます。ある程度読書量を抑えて通史のあり方を掴もうとするならば、以下の文献がよいかもしれません。まず、シ…
2週続けて類似の質問をくださっているのですが、この点は講義の出発点としてお話ししたことです。2回にわたり授業しましたので、しっかり復習をしておいてください。端的にいってしまえば、中高の国史教育が「国民のアイデンティティーを涵養する」目的を…
大王ではありませんが、授業で扱った聖徳太子=厩戸王などは、まさに武烈などとは正反対の扱われ方をしています。『書紀』において、彼の言動は美化・神聖化されていますが、それは蘇我本宗家を打倒した改新政府、その後継者としての律令政府が、蘇我氏の専…
もちろん、古墳時代の祭祀のあり方を考えますと、大王に一定の神聖性があったことは否定できません。しかしそれは自身を神とするような神聖性ではなく、それを祀ることのできる最高の司祭といった位置づけでしょう。古墳の被葬者は神に近い扱いを受けていま…
もちろん、それは関係があったでしょう。位というよりは、出自、年齢などですね。父親が大王位にあったことも、もちろん条件のひとつでしょう。しかし実際のところ、継体以降の大王位継承の歴史のなかでそれれがしっかり遵守されたのかというと、充分な事例…
神道における最高神がアマテラスだという考えは、実は非常に新しいものです。例えば国学の代表的思想家のひとり平田篤胤などは、アマテラスは現実世界の主宰神に過ぎず、それを包括する幽冥界の主宰者オオクニヌシこそが最高神だと考えていました。明治の神…
久米邦武が、厩戸王出生譚をイエスのそれと結びつける見解を提出しています。イエスだけに限らず、英雄の特別な誕生の仕方を物語る異常出生譚ですので、物語の形式として伝来してきていたとしてもおかしくはありません。ちなみに、当時の王族の実名は、養育…
中国の都城制が導入される以前、ヤマト王権では歴代遷宮制が採られていました。すなわち原則として、即位した大王は自分自身の宮を新たに建設する、治世の間複数の宮を建設する場合もある、ということです。ゆえに宮が非常に多いわけです。ちなみに都城制導…
『日本書紀』では賄賂を受け取ったと書かれていますが、前代からの流れから考えてゆくと、九州地域には独自に半島と繋がっている勢力が幾つもあったのだと思います。ヤマト王権に建前としては服属しつつ、半島から種々の供与も受け、独立志向が強かったとい…
渡来系氏族のなかには複数の言語を駆使したものもいたでしょうが、史料には、「訳語(ヲサ。「曰佐」とも表記します)」の存在を確認することができます。彼らは職掌として記されている場合もあり、どうやら伴造制のもとでの氏族を意味する場合もあったよう…
講義でもお話ししたとおり、ひとつの渡来氏族全般が血縁で結びついた集団ではありませんので、蜂起するほど強固に結束した自律的グループにはなりえなかったようです。ただし、東漢氏は蘇我氏に爪牙として駆使されましたし(崇峻を暗殺したのは東漢氏です)…
例えば、現在の京都府上京区には、鴨県主が統治する鴨県が置かれていました。この地域には、極めて勢力が強かったがために朝廷が介入し、上社/下社に分離することになる賀茂社が存在し、朝廷へ氷を供御する氷室、薪炭の採取できる山地なども置かれていまし…
いわゆるヤマト王権の地方把握は、講義でお話ししたとおり地域首長を通じた委任統治ですので、公地公民制を前提とした個別人身支配には至っていません。しかし、委任を認め称号を下賜した首長たちは、何らかの形で王権と接触を持っているはずです。『書紀』…
文献資料としてはこの2つ、さらに『風土記』『万葉集』『懐風藻』『藤氏家伝』『続日本紀』などを限定的に利用可能でしょう。また同時代史料として、木簡や墨書土器などの出土文字史料、仏像の銘文や墓誌などの金石文を挙げることができます。しかしそれら…
中臣氏は、やはり百済を介して輸入した中国的な卜占=亀卜と、在来の祭祀・修祓の斎行、神話=歴史の管理を担うため、占部・卜部などの伴造として編成された氏族です。飛鳥地域に根拠地がないわけではないのですが、摂津のそれの方が勢力基盤として大きいの…
そうですね、氏族制の表徴として、王権との関係や奉仕の内容を示すカバネは、この頃に使用されてゆきます。渡来人の流入、支配機構の複雑化により、人工の氏族を多く編成することとなったので、カバネによって整理し序列を定めようとしたものでしょう。「連…
それは正しい見方かもしれません。『書紀』の描く蘇我逆臣史観は明らかに「冤罪」であり、彼ら自身が当時の王権の中心であったとみてもよいので、その血筋に沿って大王位が継承されてゆくという慣習は、選択としては大きく誤っていなかったのだと思われます…
あまり人口には膾炙していませんが、やはり阿倍氏も相当な権力を握っているのです。乙巳の変のクーデターの後、左大臣に任命された阿倍内麻呂(または麻呂、倉梯麻呂)は、廟堂の年長者として尊重されたといった言い方をされていますが、精確ではありません…
大伴金村が大連になった武烈〜継体期が最盛期ですので、勢力が弱まっていたために批判を受け失脚した、というわけではないと思います。金村の失脚後、大連の地位は物部氏に奪われ、それ以降大伴氏からは輩出されていません。しかし合議制から排除されたわけ…
高校日本史では共有されていない知識かもしれませんが、我々が天皇を呼称するときに普通に用いている2字の呼称は、亡くなったあとに付された中国風のおくりな、すなわち漢風諡号というものです。実はこれらは『日本書紀』に記載されておらず、文武・聖武・…
より生活に密着した農事暦のようなものは存在した可能性はありますが、文字は存在しませんので、自然環境の季節変化と身体感覚、口承で伝わる記憶・出来事などを繋ぎ合わせたプリミティヴなものであったと思われます。天体の観測に基づき月日を区切ったもの…
中国では、学問・思想的な面を強調するからでしょうね。しかし、本来は鬼神・祖霊に対する作法を人間世界にも適用したものですので、種々の祭儀を伴う宗教的性格を強く持っています。日本では釈奠をはじめそうした祭儀も受容し、宮中で年中行事として行って…
抽象的な文化を受容する態勢ができてきたことは確かでしょうが、それを「発展」とみてしまうのは、いささか近代主義的といえるかもしれません。古墳文化以前の列島の人々の思考・心性が「原始的」であり、儒教や仏教が「進んでいる」というのは、文化の単線…
一般的な問題としては、やはり渡海することの物心両面におけるストレス、限界でしょうね。半島へ軍兵を送ることには、物資・人数の点で大きな制約がありますし、言語の問題などを考えると、百済や加羅などの国々と連携して戦うことにも種々の問題が伴う。か…
やはり、神話が自然/文化の媒介として作用する、ということでしょうか。レヴィ=ストロースによれば、神話の構造が構築されるとき、人間は動植物の種の間にあるさまざまな相違を手がかりに用い、二項対立の図式を生み出してゆくとされています。例えばトー…
殷代甲骨には、武丁特殊記事刻辞と呼ばれる一連の刻み込みがあり、甲骨の来源と貢納、貞人・史官の署名などが記録されています。この刻辞は、後に卜辞の刻まれる面を避け、亀甲の場合は甲橋(腹甲反面)・甲尾(腹甲正面)・背甲(背甲反面両断縁辺)に、牛…
中国王朝においては亀卜が正式・正当な卜占であり、災害に拘わらず、王や国家の大事は亀卜によって占われていました。殷代などは王の一挙手一投足まで亀卜で占われ、また旬卜といって、10日ごとに王の吉凶が予知・確認されたりしていました。
中国に限らず、前近代社会・民族社会における王とは、自然環境と密接に結びついた存在です。フレーザーの『金枝篇』によると、かかる王は自然、世界、宇宙と一体であるとみなされ、王の身体に異変の生じた場合には、同じことが世界に起きないよう殺害されて…
ユダヤ文化における「40」という数字は、潔斎にまつわる聖数のようですね。ノアの洪水のほかにも、モーセが十戒を得るまでにシナイ山に隠っていた期間、イエスが荒れ野で断食をした期間として出てきます。また、イスラエルが荒れ野で放浪したのもの「40」年…
古くは三国の呉の時代、赤烏年号を持った銅鏡が日本に伝来していますので、弥生時代末〜古墳時代の初めにかけて、江南地域との交流が存在したことは確かでしょう。その後、多少の断絶期間を挟みながらも、東晋、劉宋、南梁と、倭国と江南王朝との間には密接…