2016-06-01から1ヶ月間の記事一覧
「長幼の序」ですね。年齢の高いものほど尊いという順序です。
布施は、現在は僧侶の宗教行為に対する料金のように考えられていますが、本来は修行のひとつで、モノへの執着を断つ行為です。ゆえに、仏教の始まりから存在しました。行基集団は、その活動を展開してゆくために、集団に帰属する僧侶たちの出身氏族による援…
当時、仏教は総合科学でした。仏教の思想は、まず世界をどのように捉えるか、世界を把握する人間の仕組みをどのように捉えるか深く考察してゆきますので、経典の内容は、哲学的なもの、論理学的なもの、化学や物理学、地学や生物学に属するもの、認識論や心…
行基のような活動の先達として位置づけられるのは、彼の師であるともいわれる道昭です。彼は唐に渡り、『西遊記』で有名な玄奘三蔵の教えを受け、玄奘が天竺から持ち帰り新訳した経典を、日本へ初めて持ち帰りました。『続日本紀』にその卒伝(死亡記事に付…
不比等が権力を掌握する過程については、実は分かっていないことが多いのです。奈良時代中期に藤原仲麻呂が編纂した『藤氏家伝』には、大織冠伝(鎌足伝)・貞慧伝・武智麻呂伝が収録されているのですが、不比等伝は欠けています。本来は存在したのか、いや…
『万葉集』や『懐風藻』などから読み解くことができます。例えば『懐風藻』には、漢詩を収める人物の簡単な伝記が収められていますが、友情が成立する当時の重要な記録がみてとれます。それは、天智の皇子であった川島皇子に関する記事で、彼は大津皇子の親…
平安時代、摂関政治が展開してゆく過程は、天皇親政のさまざまな大権を、貴族側が掣肘し、奪い取ってゆく過程であったともいえます。藤原良房や基経の太政大臣就任時、その実質的な職務が確認され、摂政や関白が成立してゆきますが、それなどはまさに、王権…
大きな問題です。まず生物学的にいえば、大脳新皮質の拡大によって高度な抽象能力を手に入れ、過去と未来を想像する時間概念を発展させたからでしょうね。そのなかで、自分に繋がる人々=祖先、自分が繋がってゆく人々=未来を構想することができるようにな…
天智系・天武系の合体者を、というより、合体者である草壁の子孫を据える、というのが既定路線だったのです。しかもこの路線を構築する上で功績のあったのが藤原不比等でしたので、聖武天皇以降は藤原氏の妃から生まれた皇子が、後継者として重視されるよう…
普遍的にみられることも確かですが、タブー視されていたことも確かです。タブー視されていたのは、別段劣性遺伝を経験的に知っていたということではなく、女性を交換するためだったというのが人類学の定説です。すなわち、かつて移動生活にあった人類は、そ…
そういう気持ちは分かります。しかしこれも授業で触れていることですが、神道は中世に作られるもので、古代においては存在しません。古代では、地域地域に根ざしたアニミズム的信仰を中央が把握する形で、次第に明確化・体系化が進んでゆきますが、「道」で…
儒教は、現実社会を君主を頂点とするピラミッド構造として安定させるため、それぞれの階層を構成する君主、士大夫、庶民らの実践すべき倫理、行動を説いたもの。仏教は、現実の世界を永遠の苦しみと捉え、そこから解脱するための方法を説いたものです。仏教…
授業でも何度か触れましたが、これは内容が分からないものなのです。学界では多くの議論があり、天智が最後に大友皇子に譲位をしようとしていたところから「中国的な父系直系継承」を意味するとするもの、あるいは中大兄が蘇我本宗家を滅ぼし大王への権力集…
授業でも話をしましたが、これまでの女帝は、概ね大王の大妃、天皇の皇后だったのです。推古大王は敏達大王の妃、皇極大王は舒明大王の妃、持統天皇は天武天皇の皇后、元明天皇は草壁皇子の妃です。元正のみ未婚ですが、大王が頓死してしまう情況のなかで、…
「史」は、もともと名前というより、姓=カバネなのです。すなわち、その氏族の王権との関係、王権に対する奉仕の内容を示したものです。田辺史は、氏名ではなく、田辺=ウヂ名、史=カバネの構成です。すなわち、王権に文書の執筆・編纂などの職掌で奉仕し…
そうした法令は出ていないと思います。実際に王政復古がなった明治でも、養老律令を参照しつつ、(当たり前のことですが)それとは異なる形での国政作り、国家運営がなされました。この時点で、養老律令はほぼ空文化していたといえます。その後、大日本帝国…
ちょっとどう答えていいか分からないのですが、現在律令は単独の写本で残ってはおらず、平安時代に編纂された注釈書である『令義解』『令集解』の形で読むことができます。とくに『令集解』は、養老令の私的注釈書をまとめたものですが、奈良時代に書かれた…
大炊王は、やはり藤原仲麻呂が自らの政権の安定化、自らの家の卓越化のために立てた特別な天皇である、ということができるでしょう。草壁皇統の人物としては、孝謙太上天皇が依然として大きな力を持っており、淳仁はその承認のうえで権力を発揮しえていた。…
奈良時代に書かれた『古事記』や『日本書紀』『風土記』、『万葉集』、国家祭祀の祝詞などに、「食国」の言葉をみることができますが、それらに確認される万葉仮名や、平安時代以降に古訓が付けられた写本を分析してゆくことによって、読み方が判明するので…
もちろん、現在のような巨大な機械はありませんので、鉄製農耕具、木製農耕具を用いた役民が多数ことに当たり、せいぜい運搬手段としての牛が車とともに用いられた程度です。牛の使用は考古学的に、車の使用は史料的に確認されており、それらが往還しやすい…
やはり、朝鮮半島を経ずに東シナ海を航海し、直接唐へ赴くのは困難であったようです。玄界灘を宗像を経て朝鮮半島へ渡るか、あるいは壱岐・対馬を経て渡り、半島沿いに大陸へ及ぶのが最も安全な航路だったのでしょう。なお新羅が倭への情報を取捨選択してい…
『万葉集』巻1-50の、「藤原宮の役民の作る歌」に、「石走る 近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 桧のつまでを もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると 騒く御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 我が作る 日の御門に……
あれだけの規模のものですので、やはり縁辺部については、充分に開発されていなかったと思われます。条坊制が敷かれ、石敷道路が通っていたとしても、縁辺部については外部との連続性も高かったと思われます。外部にはそのまま農耕地が広がっており、日本の…
中国の都城形式=条坊制が碁盤目状なのは、条里制と同じく、土地の面積を計算しやすくするためです。京内の土地は、儒教の礼の秩序に応じて、原則的に身分の高い者ほど宮殿に近い場所へ広く、身分の低いものほど南側へ狭く班給されます。一区画の分割、班給…
藤原京には、縦横無尽に水路が走っていました。これは平城京や平安京なども同様で、貴族邸宅からの排水にも使用されていました。しかし、藤原京造営地はもともと低湿地で水はけが悪く、水路も詰まりやすかったと考えられます。当時の人々は、水路に牛や馬の…
すでに飛鳥寺造営の際に瓦は生産され、以降主に寺院に葺く目的で、各地に瓦窯や工房が作成されています。藤原京の場合も、奈良盆地周縁部の山際に複数の瓦窯があり、そこから常時供給されていました。
雄略大王以降次第に整備された中央集権体制のなかで、中央へ貢納される物品も次第に増加していたと思われます。また、壬申の乱が戸籍制度に基づく徴兵によって戦われたように、藤原京造営の役民も、戸籍に基づき差発されたと考えられます。藤原京は纒向など…
恐らく、歴代大王の埋葬された陵墓について、何らかの口承記録は存在したと思われます。大王の宮があった付近で、ある程度の規模を持つ前方後円墳を、順次設定していったものでしょう。しかし、大王の系譜自体が『古事記』『日本書紀』に至って述作されたも…
歌とは本来書かれるものではなく、詠まれるもの、歌われるもの、口承の世界の文芸であったわけです。ゆえに、識字率は大きく関係しません。偉人のことを○○ノミコトなどといいますが、このミコトは「御言」で、その人物から発せられる言葉を指すわけです。い…
古墳時代においても、祖先の宗教的権威に支えられた地域首長は、一種神的なものと捉えられていたはずので、我々が現在考えるほどの違和感はなかったかもしれません。ただし、それらは「亡くなったものを神と同義にみる」ことが主流だったと思われますので、…