2014-05-01から1ヶ月間の記事一覧
このあたりは、ポストモダン思想のなかで長い間議論され、歴史学でも隣接諸科学との間で大いに意見交換がなされたところです。実証に自己のアイデンティティを求める歴史学は、この面では総じて保守的でしたが、とくに日本の歴史学界は異常で、今でも充分な…
皇族が出雲大社の本殿に入れないのは、神話の関係からではありません。『古事記』に語られる国譲り神話では、オオクニヌシはその条件として天つ神と同様の宮殿で祀られることを要請し、受け入れられます。つまり、オオクニヌシを祀るのは天つ神の側であり、…
龍については、弥生時代の土器にその存在が確認される、との説があります。その図像は足の生えた百足のようなものであり、妥当であるかどうかは未だ分かりませんが、古墳時代の段階で、そうした神獣に関する情報が伝来していたと考えてもおかしくはありませ…
森林については、やはり水辺と同時期から信仰の対象にはなっていたものと思われます。半定住は、魚介類の栄養素・カロリーだけではなく、土器の発明に基づく煮沸やアク抜きによって、ドングリや胡桃、栗などのでんぷん質堅果類を消化できるようになったこと…
中国の場合は、無常観とはあまり関係がありません。むしろ、今の苦難の時代をリセットして、新しい世界が来ることを希求するものです。皮相的なところでは現王朝が妥当され新たな王朝が誕生すること、より深いところでいえば、現在の時代・世界そのものが終…
「経済的理由」にしろ「民俗的理由」にしろ、やはり生存するという本義の表現の相違なのではないかと思います。三陸地域で生きてゆくためには、これまで関わってきた生業=漁業を続けざるをえない、土地で生きてゆくうえでは、大地と一体化した祖霊との繋が…
斎藤英喜さんはそういう見方ですね。ぼくは、オオクニヌシの神格にしろ、神話にしろ、幾つかの在地の神々のものを集めて合成したものであると考えているので、それが成巫譚のようになっていること自体に関心があります。意識的にそうしたのか、あるいは自然…
たくさんの事例が確認されています。沖縄のユタと並んで最も著名なのは東北のイタコでしょうが、類似の口寄せ型としてやはり東北のゴミソやカミサマ、その他各八丈島や青ヶ島など島嶼部のミコにも独特の宗教文化が残っています。特定の祭礼の折のみに当番制…
有名なのは、柳田国男の「一つ目小僧その他」にみられるテーゼでしょうか。年中行事的な祭祀において、神の依代としてその中心となり、最後には殺される神主を聖別しておくため、片目を傷つけるというものですね。この考え方については種々の批判があります…
日本の民俗学、あるいは宗教史研究でも、女性=シャーマン(依代)、男性=審神者(さにわ。依代の神語りを、常人に分かるように通訳する存在)のペアによって宗教儀式がなされる、といった考え方が根強くありました。事実、歴史資料においても、あるいは現…
神がかりの儀式なりそれに類する治療の類は、まず術者と患者、あるいはその場に居合わせた人との信頼関係、儀式が始まって終了するまでの全行程に参加すること、そして場の空気感を共有することが必須でしょう。その場に居合わせなければ、あるいはその場に…
『日本書紀』は8世紀の段階でヤマト王権の立場から、『三国史記』は12世紀の段階で高麗の立場から書かれていますので、朝鮮諸国とヤマト王権との関係(使節の位置づけなど)を中心に異なる記述は多く出てきます。時代的には『日本書紀』の方が古く史料的価…
神社への刀剣の奉納は、主に神の持物として献上されるものですが、起源的には弥生の青銅器祭祀と同様の意味がないとはいいきれません。神の辟邪の能力を象徴している、とみるべきでしょうか。
あらゆる宗教が共通の発展段階を単線的に辿るとはいいきれませんが、概ね文化の方向はヒト中心主義へと向かってゆきますので、その過程で、自然から人的存在へ崇拝対象が変化することは往々にしてみられます。そこには、例えばアニミズムにおいても動植物の…
当時、漢が発給していた各種の金印と比較して、形状や印影などが相違する点が挙げられます。また、出土情況に不明な点が多いことや、発見された江戸時代は金印などの贋作が多く生み出され、学者その他の間に流行していたことが主な理由です。三浦佑之さんの…
「生口」について『後漢書』の記述をみてみると、ほぼ匈奴などとの戦争奴隷の意味で使用されています。彼らはやはり肉体労働か、あるいは捕虜の交換など政治的切り札のひとつとして使用されたようです。なお、身長140センチ云々の記述は、史書には出て来ませ…
狗奴国については、男王(当時は卑弥弓呼)の治める国で、卑弥呼に従属せず、「狗古智卑狗」という官をもって統治していたということ以外、正確なことは分かっていません。かつては九州地域に比定する説が一般的でしたが、邪馬台国畿内説が有力になってきた…
外交をもって友好関係を結び、朝貢国にしておくことが、周縁の辺要国への対応としては最も肝心です。大陸内に蜀や呉の敵国を抱えた状態で、海を越えてまで軍隊を派遣することは、いつ隙を突かれてもおかしくない危険な政治判断であり、統治の困難を考えても…
この頃、邪馬台国=倭国が朝鮮半島、もしくは大陸に相応の派兵を行える力があったかどうかは分かりませんが、戦争状態が長く続いていましたので、社会的疲弊はしていながらも戦争の知識・技術は進化していたと推測されます。魏が黄幢を下賜し、それを掲げ軍…
授業でお話ししたように、倭国大乱の段階から、何人かの小国の指導者が中国へ使者を派遣し、交流を持っていたと考えられます。彼らが朝鮮半島の諸国や中国王朝と交流を持とうとしたのは、鉄をはじめとする金属器やその原料、その他の宝物、知識や技術を得る…
指導者層やその関係が交替する、あるいはより大きなクニヘ包括され消失する、ということはありえたでしょう。ヤマト王権すら、現在は、もともと幾つかの家系が実力主義で大王としての役割を果たしていたのが、次第に一家系に収斂してゆくものと想定されてい…
これが分かれば、邪馬台国問題は解決したに等しいでしょう。王権の機能が九州から近畿へ移動するということは考えにくいので、邪馬台国が九州ならばヤマト王権とは別系統、近畿ならば連続するものとみられます。現在発掘中の纒向遺跡が邪馬台国の遺構であり…
弥生時代の首長墓の拡大はあくまで過渡期的なものであって、青銅器祭祀が放棄され古墳祭祀に転換する過程を意味します。昨日まで共同体の青銅器祭祀を中心になり立っていたものが、今日突然青銅器を捨てて古墳を造営し、古墳祭祀に変更するなどといった現象…
文献からでは、分立していた倭の諸小国が卑弥呼を共立して王とし、卑弥呼と名づけたとあるだけなので、その経緯や勢力範囲は明確には分かりません。しかし、この共立王→親魏倭王の誕生を青銅器消滅→古墳祭祀の現象と結びつけて考えるなら、かつて青銅器祭祀…
現在、一般的には、「ヒノミコ」=日の御子のことであり、称号であって個人名ではないと考えられています。仮にこれが正しいとすると、大王を太陽神の末裔と位置づけてゆくヤマト王権との連続性は高い、といえるかもしれません。
「国」「神」などの字を使うと、漢字に付随する狭義の意味になってしまうため、テクニカル・タームとしてメタ化しして使用する目的です。「国」「神」と表記すると、漢字のそれが定着して以降の意味合いになってしまいますが、クニとすると各地域の首長権力…
そもそも「倭」が何を意味したのかについても、a)人称、b)地名、c)他称などと定まっていませんので、意味についても異論がありますが、概ね以下の3説に分けられるでしょう。まずはイ)後漢・許慎撰の『説文解字』の字義説明に基づき「柔順」と考える説、…
もちろん、そうした考え方もできるでしょう。巫病とは力のマイナス面ですから、シャーマンの力自体は極めて両義的なものといえます。まさに「境界の力」なのですね。ですから現実の場合、師匠となるシャーマンの指導をしっかり受けなければ、コントロール自…
すべてがそうとはいいきれませんが、困難を乗り越えることで世界との分断を回復する、精霊との交通を可能にする、あらゆる人の苦しみや痛みに共感する、そのような存在になったものとして尊敬されるわけです。例えば巫病の症状などは、本当に想像を絶します…
構造主義の考え方では、人間は現実世界から自分にとっての環境を構築してゆくとき、二項対立のモデルを使って世界を分節すると考えられています。確かにそうした視角でみてゆくと、ヨーロッパ以外の前近代社会にも、多くの二項対立的構図をみることができま…