日本史特講(12春)

遅ればせながら、このブログでもレポート課題の告知を行っておきます。また、評価のポイントについても載せておきましたので、執筆の際の参考にしてください。

【テーマ】史学科生)自分が重要と思う任意のアクチュアルな問題を設定し、講義で紹介してきた歴史学的な批判方法を用いて考察し、一定の結論を導き出しなさい。非史学科生)講義で扱ったトピックを任意に選んでテーマを設定し、調査・考察して、自分なりの…

先生はお坊さんですよね? こんな風にいろんな宗教のいろんな思想を考えていて、仏教の信仰が薄れるというか、信仰心に変化があったりしますか?

いえ、別にそういうことはありません。むしろ、自分の信仰について、ますます視野が深まっていっています。

最近話題になっている大津のいじめ自殺の問題で、学校や加害者を批判している人たちも、死者を自己同一化していると考えることができる気がしますが、先生はどうお考えになりますか?

「死者の無念を晴らせ」ということでしょうね。いじめについて、生徒も教員も現場を確認していながらなぜ隠蔽されてしまったのか、その原因、現状の問題点を解明し、今後犠牲者を出してゆかないよう改善を図ってゆくことは、悪いことではないでしょう。注意…

「見るなの禁」。なぜ「見る」ことがタブーとして作られる話が多いのでしょうか。視覚が、何か特別な意味を持っていたのでしょうか。

前近代においては、現在以上に五感を研ぎ澄ませた認識が行われていましたが、やはりそのなかでも、「みる」ことは特権的な地位を与えられていたようです。「みる」ことが世界を創り出す。ゆえに、みる/みられることによって、不用意に相手に影響を与える/…

講義のなかで〈鎮魂〉というキーワードが出てきましたが、魂を鎮めるための音楽というのは、歴史のなか、世界のなかにおいてどのようにみられるものなのでしょうか。西洋でいえば教会などでの鎮魂歌が想像されますが、そうした死者を取り巻く音の世界・音的環境というのは、伝統的な東アジア世界のなかではどのような変遷を経てきたのでしょう。

音階や旋律まで詳細に検討してみたわけではありませんが、例えばキリスト教や仏教など、体系化された巨大宗教においては、次第にレクイエムは荘重なもの、いいかえれば抑圧的な音感へ定式化してくるように思われます。それに対して民間のもの、例えば中国少…

死者の扱いは、各国間においてもやはり大きな相違が出てくるのでしょうか? それはその国の倫理観を示すことになるのでしょうか。

この狭い日本列島においても、各地域でさまざまな葬儀の方式、死者観の相違があるわけですから、とうぜん各国…というより地域や文化の相違に応じて、さまざまな死者の扱い方があります。そして、イコールでは結べないまでも、それは同地域・文化における倫理…

内田樹氏の言葉に、深く頷けるものがありました。過去から今日に至るまで、死者の死の意味は生者による都合のよい解釈がなされたものばかりだからです。このことから生者は死者より優勢との思考がみられますが、生者と死者の立場を平等にすることは出来ないのでしょうか。

時代のあり方、社会のあり方によって、死者と生者の関係は絶えず変動しているのかもしれませんね。確かに、生者の世界において常に死者が利用されている、消費されているという意味では、表面的には生者の方が優勢であるかにみえます。しかし、生者が死者に…

非業の死者の話で、私は祖母のことを、亡くなって以降、自分を守ってくれる存在として認識している。これも〈寄り添う死者論〉のなかに入るのだろうか?

近親者がその死を納得し受け容れてゆくための、もっとも効果的な言説のひとつであることは確かですね。お通夜や葬儀の場では、宗教の相違を超えて、この種の物語が提供されることが多いだろうと思います。しかし、物語りの主体が伝統宗教かそうでないかによ…

母を亡くしたとき、多くの人は〈寄り添う死者〉論を語りました。しかし、ぼくはそれが不快でした。ありもしないものをあるといわれ、それへの信仰を強制される。〈寄り添う死者〉はどこまで癒しなのでしょうか。

確かに、その言説を受容するひとからみれば、癒しになる場合も暴力になる場合もあるでしょう。主体の心理状態、感受性、語り手との関係など、さまざまな要因のなかで決まってくるのだと思います。それぞれがそれぞれの考え方のなかで、〈喪の仕事〉を果たし…

死者の問題ですが、日本のメディアはそうしたものを規制しすぎると思います。日本人はどこかで死者を忌避しているのでしょう。古代でも忌避しているとのことですが、現代とはやや違うようです。

個人的な経験ですが、以前僧侶の仕事をしていたとき、ある母親が、祖母の葬儀に孫を出席させないという事例に遭遇しました。母親としては、「悲惨な現実をみせたくない」との配慮かもしれませんし、必ずしも死を忌避した振る舞いではなかったのだと思います…

震災の直後から今でもよく「不謹慎」という言葉が使われますが、この概念は悲劇を語るうえで直接的な表現を阻んでいます。これもまた、生者の恣意に依拠していることになるのでしょうか。これも忌避になるのでしょうか。

「不謹慎」は、むしろ鎮魂に関連するタームでしょうね。分かりやすくいいかえると、「無念を思え」ということになるでしょうか。今回の東日本大震災の折にも、石原慎太郎を通じて息の詰まるような自粛ムードが発生しましたが、ほぼ同じような情況が、関東大…

死者論の死者の捉え方には、様々な宗教の死者の考え方も関わってくると思われる。キリスト教にとっては死者の魂は救うべきものですが、仏教では鎮魂という思想なのですか?

授業でもお話ししましたが、鎮魂はむしろ、日本列島の文脈においては神祇信仰的なものの考え方でしょう。アジア全体でも、広く在来宗教のなかに認めることができます。魂には荒ぶる面と穏やかな面があり、祭祀によってそれをコントロールすることが求められ…

感情・感性とは何でしょうか。理性・知性と二項対立的に把握されて然るべきものですか。

上の質問とも関連しますが、確かに、理性・知性/感情・感性という二項対立的把握には問題がありますね。それ自体が、極めて近代的なものの見方でしょう。両者は分離することは不可分であり、むしろ、感情・感性に彩られた理性・知性を、理性・知性に支えら…

「イエス、ノーといった同一化の応答からずらし…」や「忌避/鎮魂の中間項はありえないのか」といった講義の内容から、二元論の絶対的な存在が気になりました。別の授業のレポートのために参照した文献で、二元論に支配されていない学説はないとありましたが、歴史学のみならず学問全体において、二元論とはそれほどまでに不可欠であるのでしょうか。

ポストモダンの考え方では、二元論的な思考様式からの脱却が目指されています。二元論は分かりやすいので、複雑な世界の把握における常套手段として使われてきました。例えば、自然/文化の二項対立は、キリスト教的世界で営々と培われてきたものの見方です…

21年も生きて今さらですが、人が「倫理」という言葉を何を指して(何を想像しながら)使っているのかよく分からず、違和感があります。北條先生はどのような意図でお使いなのですか?

この講義では、他者との関係を、いかに暴力的ではない形で取り結ぶか、取り結べるのか、という問いが中心に置かれています。それを実現するのが倫理であり、倫理について考えるということでしょう。歴史学の営為も、そのうえに初めて成り立つべきものと考え…

ハレの儀式に対し、日常をケやケガレというが、日常は差別的に考えられてきたのですか。

正確には、祝祭的時空間がハレ、日常的時空間がケ、喪葬的時空間がケガレ、ということになります。一説には、ケとは日常を生きるためのエネルギーのことで、毎日消費をされ続け、やがてケの枯渇した状態、すなわちケガレとなる。これを日常的状態に復帰させ…

幼い頃母親が、「今の子は想像力が足りないから、平気で人を傷つける」とよく言っていました。この「想像力」は、自分の行為によって他者が傷つくことが分からない、つまり他者表象の能力が欠けていると解釈してよいのだろうかと今回の講義を聴いて考えました。「今の子は想像力が足りない」というのは、学問の時代の流れを考えたうえでは、どの程度根拠があるのでしょうか。

確かにぼく自身にも、そうした感想を抱く出来事は多くあります。例えば、震災関係の授業を行ってリアクションをみても、その惨状を想像できず、利己的な観点からしか捉えられない学生も多い。メディアで採り上げられる少年犯罪の様子など、それを行ってしま…

私の父は、東日本大震災の現場で救助活動などをしていましたが、トラウマ的に言葉に出せないこともたくさんあると言っていました。戦争体験もそうですが、人間の経験を記述することそのものが難しいのではないかと思いました。

そうですね。テレビ等々で報道されているのは、本当に「きれいなところだけ」ですから、ご遺体の散乱するような現実の光景は、とても表現しきれるものではないでしょう。アウトプット自体に、大きな困難さが伴います。トラウマについては、かつては「話すこ…

他者表象の問題について考えてみたとき、歴史をみるという行為の究極的な目論見は、「自分」を理解するためなのか、「他者」を理解するためなのか、判断がつかない。先生はどう思われますか。

上の方の質問にも通じますが、自分/他者を二極分化して考えるのが問題なのだろうと思います。他者を理解することが、結局は自分を理解することになる。逆に、自分を理解することによって、他者への理解も深まってゆく。以前、フロイトのところで少し触れま…

社会学の勉強をしているときに、機能理論や紛争理論などを、自分が研究していること、明らかにしたいことに応じて選んでいくというような話を聞いたのですが、歴史学ではそのような立場は可能なのでしょうか。

例えばアメリカの歴史学研究は、それに近い構造を持っていますね。例えばデリダ、フーコー、ブルデュー、ギアーツなどさまざまな思想家の理論・方法を学びながら、対象と目的に応じて使い分けてゆく。確かに、いろいろな理論を当てはめて考えてみることで、…

「落としもの」としての実践的過去を追うとした場合、それは心性史のようなものを指すのでしょうか。それとも新たなジャンルではなく、既存のジャンル・研究にも結論として実践面を付与しろ、ということでしょうか。

ホワイトは、現在における歴史学の意味、人が生きることにおいて歴史学は何を提供できるのか、を問題にしているのでしょう。もちろん、歴史学的過去はひとつの前提でしょうが、それを絶対視することなく、また現在へ従属させることもなく、社会へ還元する方…

現在を生きる人々の宗教観が気になります。科学と宗教が並立することってありうるのでしょうか。 / ランケは、「進歩史観を否定しながらも国家の価値を重要視する」とのことでしたが、それが同時に成立するのはどうしてですか。

もともと、現在科学が担っている世界、宇宙についての説明付与という機能は、かつては宗教が担っていました。そういう意味では、もともと科学と宗教は近しいものです。近代においては、スピリチュアリズムやオカルティズムが科学と同居していました。エジソ…

他者がどういうものなのかは何となく分かりましたが、他者の反対側にある主体はどういうものなのでしょう。自分のどこからどこまでが主体として規定できるのでしょうか。例えば、多重人格の主体とは何なのでしょうか。主体の範疇がよく分かりません。

大変に重要な問いかけです。これまでの講義の枠組みは、近代学問のディシプリンを前提としていますので、主体とは確立された近代的〈個〉以外の何ものでもありません。しかしご指摘のとおり、その範疇では多重人格者等々捉えきれないものもでてきます。また…

日本のマスコミには報道内容に偏りがあるという話でしたが、先生はふだんどれくらいの新聞を、また国内・国外メディアを比較しているのですか?

そういわれるとつらいですね。かつて、「寺で暮らしていた」ときは、左から右まで、『赤旗』『朝日新聞』『毎日新聞』『神奈川新聞』『読売新聞』『産経新聞』を総覧していました。現在は、通常は限られたソースでしか情報を得られていません。しかし特定の…

教育実習に行ってきましたが、私の担当した中学3年生の生徒は、太平洋戦争という戦争があったことを知らない者が29人中9人、日本がアメリカに占領されたことを知らない者が29人中15人いました。この講義で学んだようなことを雑談程度に話したら、指導教員から、「知識の詰め込みだ」といわれました。その先生には、「大学の勉強は知識の詰め込みで、知識だけあってもどうしようもない」と終始貶されていました。私は、知識とは何か分からなくなりました。

いろいろな意味で残念な話ですね。知りもしない人を無碍に批判するのは、「他者表象の倫理」上問題があるでしょうが、それでも上に書かれたことのみから判断すると、その指導教員の方は大学という研究教育機関の意義を根本的に取り違えています。大学は学生…

私は、尖閣諸島の問題について卒業論文を書こうと思っています。しかしあまりに時代に直結したことがらなので、中国・日本両国民の感情を傷つけてしまうのではと悩んでいました。しかし今日、「中立性確保の方法」について学び、ようやく方向性を見出せた気がします。どちらかの立場に立つのではなく、両者を対立させない視点で、公共利益を見出すべく研究したいと思います。

素晴らしいですね。歴史的な経緯をきちんと追いながら、お互いの主張を検証し、そのうえで協同的な関係をいかに見出すかを考えてみてください。

これまでの講義を聞く限り、歴史学は倫理に基づいて展開している印象を受けます。後世代が守るべき教訓と取るべき責任を伝える役割がある、と思えるのです。しかしそのことによって、良しとされないことが決めつけられ、いじめや差別といった問題がなくならないのではないかとの疑問を持ちました。これは、レポートの現代的課題になるでしょうか。

なります。歴史学の倫理が過去を現在に従属させることになるかどうか、その点も踏まえてしっかり考えてください。

前近代の「客観性」には宗教的要素が伴うとのお話でしたが、それらをふるい落とすことで成り立った近代学問は、本当に「客観的」なものなのでしょうか。

当然の疑問ですね。質問の主旨とはちょっと違うかも知れませんが、例えば、現在高度に発達している化学や物理学の知識を、皆さんはどれだけ持っているでしょうか。また、それは皆さん自身が実験によって解明し、きちんと実証した事柄でしょうか。日進月歩で…

前近代の「客観性」には宗教的要素が伴うとのお話でしたが、史官が「中正」を貫くのは、そういった神への恐れでもあったということでしょうか?

やはり中国の史官の場合、「神」というより「天」でしょうね。後に、地上の官制を反映して天にも天帝の官制が想定されるようになると、人格神的要素も介入してきますが、本来は、そうした人間的なもの一切を超越した概念であろうと思います。それに対する意…

『文心雕龍』の史論には「歴史に勧善懲悪を示」「その時代の聖人を規準にして歴史を記述する」とありましたが、後の時代においてその聖人の評価が変わる可能性についてはどう考えていたのでしょう。

「聖人に従う」というのは、個々の時代の誰それというより、古代の聖王たちと周公旦・孔子の言動、それを伝えた記録という意味でしょうね。そして、聖人なるものの評価は絶対であり、時代には左右されないのです。なぜなら、普遍不変の真理を語るのが聖人だ…