日本史概説 I(09春)

レポートは、メールに添付して送ってもよろしいでしょうか。

「送ったのに受け取っていない」という誤解の生じることがありうるので、原則としてプリントアウトしたものを提出する、ということにさせてください。もし何かやむをえない事情があれば対応します。

律令制によって、実際に民衆を統治することはできたのでしょうか。また、統治される側の民衆の認識はどうだったのでしょう。

まがりなりにも統治は成り立ち、国家は運営されてきたので、支配機構として一定の役割は果たしたと思われます。古代などの古い時代になると、支配者と一般民衆との間にはずいぶん距離があるように思われがちですが、例えば条例などを知らせる告知札木簡など…

古代の役職について分からないことがあるのですが、何を調べればいいでしょう。

古代の官職について調べるのなら、阿部猛編『日本古代官職辞典』が便利です。律令の条文に則した職務内容・人員・制度の変遷などの概説に、現在の研究情況や主要参考文献も付されています。

藤原四子の死没の件ですが、当時の生活様式は疫病など蔓延しやすいものだったのでしょうか。

当時の木簡などには下級官人の病による休暇願も多く、衛生的には整った環境ではなかったことが指摘されています。天然痘は飛沫感染や接触感染で、貴族たちは病者には近寄らない措置をとったはずですが、宮廷や邸宅などでは多くの下級の職員を抱えていたため…

長屋王の生活はぜいたくで夏は氷を食べていたと聞きます。氷はどのように作ったのでしょう。

冬に出来た天然の氷を、氷室という貯蔵施設で保管し、夏に利用していたのです。氷室は山中の洞窟などを利用しますが、地下水の気化熱などで外よりも冷涼であるため、氷をある程度保存することができたのです。長屋王の利用していたのは都祁氷室だったようで…

当時、死者を火葬するのには多くの手間暇がかかったといいますが、長屋王と子供たちの屍骸を「焼き砕いて河に散らし海へ流し」たというのは、案外王への敬意の表れだったのではないでしょうか。

丁重に扱おうとすればそれなりに手間がかかりますが、廃棄する前提で火葬にするなら簡単です。人体にもずいぶん脂分がありますので、ある程度火がつけばよく燃えるのです。中国雲南省の少数民族では、今でも村の傍らの畑で死者を火葬にしています。

史料12に長屋王の最期が描かれていますが、子供たちのことは書いてあるのに、吉備内親王の記述がないのが気になりました。

そうですね。『霊異記』撰者の景戒は宮廷と関わりのある人ではありませんが、長屋王事件がなぜ起きたのかは正確に把握していたのかも知れません。つまり藤原四子が狙ったのは、皇位継承権のある長屋王と、吉備内親王との間に生まれた皇子たちだったというこ…

史料10が気になりました。密告者が殺されるというのは、何か都合の悪いことがあったのでしょうか。

大伴宿禰子虫が長屋王の冤罪を疑っていなかったとすれば、中臣宮処東人はまさに虚偽の密告をした犯人として許せなかったことでしょう。配下に慕われた長屋王の一面が分かる事件とはいえ、これ自体は個人的な恨みによるものでしょうが、それを『続日本紀』が…

作宝楼の存在が気になります。レジュメに「神仙境的位置づけ」云々とありますが、神社でもないのにそのような場所が作れるのでしょうか。

古代日本においては、古墳時代中期から水の祭祀が極めて重視されていました。聖なる山の麓の湧水点を祭祀したり、あるいは川などから濾過した浄水を邸宅に引き込み、外から遮断された空間で秘密の祭祀を行ったりしました。その方式は飛鳥時代以降の宮都にも…

元明女帝は孫の首皇太子を幼少であるとして、娘の氷高内親王に譲位した。しかし持統女帝は、その頃の首と同年齢だった珂瑠皇子を即位させている。この違いは何なのだろう。

講義でも少し触れましたが、私見では「不改常典」、すなわち現天皇が後継者を指名する形式を徹底させるためと理解しています。古代日本の皇位継承法は時代によってずいぶんと揺れがあり、そのことが候補者間の内紛を誘発することに繋がってきました。持統・…

網野善彦氏の本で、「貨幣は古代から、神仏と関わりのある聖なるものである」と読んだことがあります。先生はどうお考えですか?

近年、ぼくの民俗学の師匠新谷尚紀氏が、貨幣は死を象徴する空虚であるという文章を書いています(広瀬和雄編『支配の古代史』所収)。古代日本に初めて登場した貨幣=富本銭は、「富民の本は貨殖にあり」という漢代の思想を輸入したものですから、完全な厭…

神婚について、その妊娠は周囲に祝福されたのでしょうか。その子供は生まれてから、どのような位置付けで育てられるのですか。

ある氏族もしくは共同体において、神婚や神の子の物語は、氏族の長の家が始祖を語る際に用いられる言説形式です。つまり神の子は、自分たちが神の子孫であることを示すために政治的に創られてゆくのです。典型的なのは、『古事記』にも『書紀』にも載る三輪…

『日本書紀』と『古事記』は、内容的にはどう違うのでしょうか。両書の相違は意図的なものなのですか。

もちろん、この違いは意図的なものです。具体的な内容では、例えば天地開闢の描き方があります。『書紀』はアジア的スタンダードの陰陽説に則って、混沌のなかから気の働きによって天地が生まれるさまを記述しています(高天の原は登場しません)。それに対…

墨書土器や人形などは平城京の水路に流されたとのことですが、邪悪な感情の流れている水路もよくないものとみなされたのでしょうか。

流水はやがては海に流れ着き、海は穢れのたどり着く「根の国」に通じているとみられていました。これは大祓の祝詞に明記されていることで、だからこそ呪物や祓物が水路や川に投じられたのでしょう。古来、流水が禊ぎの場として機能していたこととも関係する…

絵馬の原型は土馬であるとのことですが、絵馬は願いをかけるもの、土馬は穢れを祓うものとすると、使用目的がずいぶん異なるように思います。どのような経緯で変化が起きたのでしょう。

土馬は、講義でも触れたように、自分で走ることができないよう足を折って流します。難波宮跡からは、7世紀に属する最古の絵馬が20枚余り出土していますが、やはり足の部分を折り割ったものが複数見受けられます。当初は、土馬と同じような利用の仕方をして…

呪いの人形が井戸から発見されたというのは、意図的だったのでしょうか。

井戸は、埋め戻すときにゴミの投棄場所ともなりますが、問題の人形は捨てられたのではなく、あえて水中に投下されたとみられています。これは結局、呪物を土に埋めたり火で焼いたりするのと同じことで、実際に呪詛の対象へ被害を与える霊的存在へ手渡す、他…

祓の具体的な方法を教えてください。 / 人面墨書土器はどのような身分の人が作っているのでしょう。

土馬や人面墨書土器を使う方法はお話ししましたが、基本的には、祓具に穢れを付着させて流すのが一般的であったと思います。6月・12月に天下の罪・穢れを一掃する大祓では、根こそぎ刈り取った罪・穢れを川、海の神々が運搬して根の国・底の国まで破棄し滅…

八世紀にはそまざまな書物がつくられ、文書行政も発展してゆきますが、日本ではそれほど紙を作る技術が進んでいたのですか。

寿岳文章氏の研究によると、8世紀には、1日平均170枚、年間で62,000枚の紙が生産できていたようです(『日本の紙』)。この他にも木簡が使用されていましたので、中央官庁の文書行政を支える程度の分量はあったと考えられます。『書紀』や『風土記』を生成…

なぜ奈良時代においては女帝の存在が可能だったのでしょう。 / 中国ではよくないとされた女帝が、なぜ法的に認められたのですか。

日本列島の在来的な文化では、女性の王権継承の可能性は、常に排除されてはいなかったのでしょう。七世紀に推古や皇極=斉明、持統が登場するのも不自然なことではなかったのだと思います。大宝律令においても、その現実を踏まえて母系継承が承認されている…

武智麻呂は22歳の出仕とありますが、これは通例と比べて早いのでしょうか。

数え歳で22、満20歳。この年齢が、貴族の子弟の出仕する規定の年齢であったようです。

持統・元明・元正の女帝の頃は母系継承がありえたのに、父系継承の論理が広まっていったのはなぜですか? / 奈良時代における女性の地位について教えてください。

講義でお話ししているように、天武・持統朝の頃から父系嫡系継承が中心的政策となっていたことと、平安期以降、天皇家・摂関家を端緒に家父長制が定着してゆくことと関連があります。8世紀においては、律令によって皇位の母系継承も認められていましたし、…

ヤタガラスはなぜ3本足なのでしょうか。

この源流はやはり中国神話で、太陽のなかにいるという3本足の烏を指します。なぜ3本足なのかについてははっきりとは分かりませんが、中国では殷代より、3という数が宇宙の本質を示す基礎的な聖数として扱われてきました。漢代には、それが天・地・人を意…

藤原京では「天子南面」の思想が充分実現できていなかったとのことですが、粟田真人以前の遣唐使・遣隋使も長安や洛陽をみていたと思うのですが?

つまり、都城制を導入して藤原京の建設を始める以前は、唐の長安城についても「自分たちが建設するもの」と思ってみてはいなかったのでしょうね。ですから、天智朝から大宝元年に至るまで遣唐使が中絶していた時期、中国都城の実態については圧倒的に情報が…

唐への報告のなかには、日本独自の文化や技術は含まれていなかったのでしょうか。

この時点では、まだ日本は辺境の蛮族に過ぎませんので、日本の文物への評価は「東夷がけっこうがんばっているね」程度のものであったと思います。しかし平安期に入ると、一部仏教の典籍などでは、「これほどのものは中国にもない」という賛辞を与えられるま…

日本は、これ以降も冊封体制のなかには組み込まれなかったのでしょうか。/ 新羅などは冊封体制に入ることに決めたのに、こうした相違はどうして生じたのでしょうか。

日本は倭の五王の後南北朝時代に至るまで、中国王朝に対して朝貢という形の外交は結びますが、それに応じて中国的な爵位や王号を賜与されるといった冊封は受けませんでした。一方の朝鮮半島は、常に歴代中国王朝との間に緊張関係を保ちつつ、結局は冊封を受…

当時の外交でも、現代のように国益をめぐって意見を衝突させることがったのでしょうか? / 日本の国号を宣言したとき、日本人には「倭」という字の意味が分かっていたのでしょうか。

中国の正史『旧唐書』は倭国伝と日本伝を併記し、両者の関係について、1)倭国と日本国は別種である、2)倭国が国号を改めた、3)日本国が倭国を併呑した、という3説を挙げています。恐らく、唐でも「日本国を名乗る使節の実態」をよく把握していなかったの…

どうして日本人は唐を絶対化したのでしょう。

絶対化したというのは語弊がありますが、建設すべき国家の理想としたということですね。それは、唐王朝の政治・文化がアジアにおけるスタンダードであり、それに準拠しなければ順調な外交を行いえなかったためです。唐の政治・文化を輸入して文明国となるこ…

結髪の命令に関連して。40歳以上の婦女は髪型自由とのことですが、なぜでしょうか。/ 結髪の期限が12月30日に定められているのはなぜですか。/ 併せて女性の乗馬も規定されていますが、どういうことでしょうか。 / 生活の細かい規定に違反した場合は罪に問われるのですか? / 平安期の美女の条件には長い黒髪がありますが、7世紀からどのような価値観の変化があったのでしょう?

まずこれらの法令で結髪が義務付けられているのは、あくまで中国的な習俗を身に付けさせようとする風俗矯正です。何度も発令されているということは、宮都に居住した貴族層はともかく、一般にはなかなか法令が浸透しなかったことを意味するのでしょう。シャ…

『旧約聖書』にみえる王の人口調査に対する神の怒りと、古代日本の壬申の乱との間には類同性が認められるとのことですが、日本は天皇=神と認められていたので、抵抗が起きたとすれば違う理由だと思うのですが。

講義でもお話しましたが、天皇が現御神と位置づけられてゆくのは天武・持統朝以降のことなので、壬申の乱が神の怒りの結果だと表現されたとしてもまったく不思議はありません。また、天皇即神の成立以降でも、神が天皇に祟った事例は幾らでもあります。そも…

仏教史に関するよい参考文献を教えてください。

古代仏教史全体を俯瞰するのであれば、速見侑『日本仏教史 古代』(吉川弘文館、1986年)が便利です。また、最新の史料批判を活かして、東アジアや民衆の視点から古代仏教を読み直した著作に、吉田一彦『民衆の古代史』(風媒社、2006年)、同『古代仏教をよ…