全学共通日本史(18秋)

環境についての文書が少ない理由として、当時そういう意識がなかったからか、それとも隠したかったからか、どちらですか?

ぼくの話し方が悪くて、誤解を招いたかもしれません。授業でお話ししたのは、まず教科書に記述が少ないこと。これは、環境史という分野への社会的要求が高いにもかかわらず…ということなので、未だ教科書を作成する種々の担い手たちが、旧態依然とした「日本…

スナイドル銃の口径が大きかったのは、実用的ではなかったのでしょうか、また人道的視点が考慮されたのでしょうか?

銃弾の射程距離を延ばし命中率を高めるためには、口径をある程度小さくし流線型にするほうがよいので、この時期に口径が大きいのは、単にまだ技術は発展途上であったからでしょう。また、大きな口径の弾丸を撃ち出すためにはそれなりの爆発力が必要であり、…

当時の作戦の遂行過程において、現地の人とは何語で話をしていたのでしょうか。

通訳がいました。朝鮮王朝においては、通訳官養成所において日本語の書物が翻訳され、日本語の研究も行われていました。同時に日本でもハングルの読める知識人はおり、福澤諭吉門下の井上角五郎などが、ハングルによる新聞の発刊を援助しています。日本軍の…

外国人に比べ、日本人は過去の問題に対する憎悪があまりないように思えますが、教育のせいなのでしょうか?

「国民性」という不正確な言葉はあまり使いたくないのですが、確かに列島社会には、感情の爆発について抑制的なところがあるかもしれません。しかしそれは必ずしもよいこと、理性的なことを意味しません。むしろ事を荒立てない、問題を対象化するのを避けて…

日本兵に朝鮮への蔑視があったということですが、それはなぜなのでしょうか?

もちろん、統一新羅以来の半島を仮想敵国とする考え方(それは例えば、天然痘の起源は挑戦であるなどの民俗知を生みだし、根付かせてゆく)の影響もあるでしょうが、直接的には、明治18年(1885)に発表された福澤諭吉の「脱亜論」や、その背景にある政治的…

殲滅作戦に参加した日本の兵士たちは、倫理的感覚が麻痺しているように映りますが、それほど、一般国民に対する日本政府の力が大きかったということでしょうか?

現代的な価値観で当時の戦争行為をみると、確かに「狂気」が浮かび上がってきますが、それが当時の日本の戦争の常識だったのだ、と捉えると話は変わってきます。授業でも少しお話ししましたが、明治10年(1877)の基礎史料である『従征日記』を読むと、幕末…

当時、敵国ではない朝鮮において、しかも兵士ではない一般市民を相手に行われた皆殺し作戦は、戦いとしてはどのような位置づけになるのでしょうか。 / 国際法違反とのことですが、当時国際法はどの程度守られていたのでしょうか。

1880〜90年代にかけて、日本では国際法の翻訳ブームが起こり、盛んに訳書が刊行され急速に理解が進んでゆきます。そのなかから、有賀長雄、寺尾亨、高橋作衛、中村進午といった、国際法を専門とする法学者が登場してくるのです。川尻文彦氏(「『万国公法』…

なぜこの、東学党農民殲滅の愚行は、日韓において、慰安婦のように問題にならないのでしょうか? / この事実は、韓国の一般市民にどの程度知られているのでしょうか?

韓国では民主化の動きと連動し、1994年の100周年までには大きく研究が進展、史料も集成・刊行され、多くの研究書も出版されて、従来マイナス視されることの多かった東学党の再評価が進んだようです。その結果、2004 年に「東学農民革命参加者の名誉回復に関…

「戦前への反省」という日本人の言葉には、日清戦争や日露戦争は含まれていないように思えます。なぜこのような区切りが発生してしまうのでしょうか。

やはり、授業でお話ししたような司馬史観、別のいい方をすれば明治礼讃史観が極めて強い、ということでしょう。19世紀後半のアジアは欧米列強による植民地分割の舞台となっており、日本もいつその対象になってもおかしくなかったけれども、明治維新によって…

日本史をずっと学んできて疑問に感じていることとして、日本人にはやたらと異質な存在、とくにアジア人などを下にみる習慣が歴史的に垣間見えるが、これは他のアジア人も同じなのだろうか。

歴史的にみれば、自らを政治・文化の中心とみなし周囲を蛮族と捉えるエスノセントリズムは、まずは中国王朝において強烈にみられます。倭=日本も当初はその差別的視線にさらされますが、古代国家形成時、それ自体を自らのものとして小中華的な世界観を築い…

近代においても、首級を挙げるといった中世のような行為が行われていたのはなぜなのでしょう。近代の戦争において、リーダーを殺したうえでさらし首にする必要性があったのでしょうか。

中世から戦国期に「首級を挙げる」ことと、近世から近代初期に「梟首にすること」とは、やや性格が違います。前者は人類学的にみれば首狩りの一種でしょうが、後者はみせしめの性格が強い刑罰です。日本軍の東学党農民軍に対する措置には、早くから「見せし…

のちにアイヌが同化されてゆく段階にあって、分断され幕府と関わらなかったような地域では、アイヌ文化を維持できたのでしょうか。

上にも触れたとおり、幕府直轄化による和名化などは進められてゆきますが、アイヌの文化が全面的に破壊されていったわけではありません。アイヌ文化自体が交易のなかから形成されてゆくことを考えれば、文化とは常に変転を繰り返すものなので、和人やロシア…

アイヌたちにとって、松前藩や商人たちとの交易は有益だったのでしょうか?

少し授業でも触れましたが、場所請負制に関しては、平和裡に開かれ、アイヌに歓迎された漁場もあったようです。同時期のエトロフでは、1800(寛政12)に石高換算で2700石、翌年には5220石の魚油を産出し、それなりの利益がアイヌ社会にも流れたようです。同…

クナシリ・メナシの戦いについて、松前藩は約束を反故にして和人殺害の実行犯たちを処刑しましたが、幕府による直轄化はその事実を隠蔽するためだったのではないかとも思います。そうした意図はなかったのでしょうか?

江戸幕府のあり方は、一応は各藩を統率管理する日本政府としての体裁を持っていますが、もとは戦国大名同士としての競合関係を基盤にしています。幕府の初発期、各藩に些細な瑕疵を認めて取りつぶしを行い、その武力・財力を削減していったように、彼らには…

クナシリ・メナシの戦いについて、松前藩は飛騨屋と折り合いが悪かったのに、なぜアイヌが彼らを襲撃した際に鎮撫軍を送り、欺してまで処刑したのでしょうか。

松前藩は、これまでのシャクシャインの戦い、豊臣・徳川による朱印状・黒印状を背景にしての恫喝でもみてきたとおり、アイヌと交渉する和人の代表としての立場を持っています。いくら折り合いの悪かった飛騨屋とはいえ、和人がアイヌによって殺害されるとい…

日本にとって不利となる歴史的に重要な史料がみつかったとき、それを隠蔽しようとしてばれて、大きなスクープになったことはないのでしょうか?

まさに、徴兵工や慰安婦をめぐるいま現在こそ、その状態にあると思います。例えば慰安婦をめぐる朝日バッシングなどは、虚偽であった吉田証言に基づく誤報を朝日が陳謝したことに始まり、メディアでは産経がこれを攻撃、国家として国際的には慰安婦の問題を…

キツネの養殖について、記録がほぼ残っていないとのことですが、調べれば出てくるものなのですか?

当時刊行されていた(すなわち当時の価値観で書かれた)カラフトの写真集や、毛皮養殖に関する技術書、皮革産業の歴史書などが存在しますので、それを手がかりに分析してゆくことが可能です。7月に行った国際会議での報告を準備してゆく際、僥倖であったの…

史跡レポートですが、春学期の「アジア・日本史系概説」に提出した場所について、別の観点からみるものではいけませんか?

いちいち、同じ学生がどこを選んでいるかは調べないと思いますが(笑)、まったく同一ではないほうがいいですね。いろいろなところをみにいってもらう、というのがそもそもの意図ですでので、鋭意努力を。

『歴史秘話ヒストリア』などの説は、ほぼ間違っているのでしょうか? とくに気になるのは、イスラエルから秦氏がやってきて、日本はイスラエルとの関わりが強いという話を信じているのですが、先生はどう思われますか?

『ヒストリア』は、まるっきり間違いを描いているわけではありませんが、見せ方に問題がありますね。秦氏とイスラエルの話は、史料的にはまったくのデタラメですので、あまりこだわらないほうがいいでしょう。そもそも「秦」字を太秦景教と結びつける説です…

蝦夷地の全容を幕府が知ったのはいつだったのでしょうか。

まずは寛永12年(1635)、幕府の版図地図作成命令に応じて、松前藩が藩士村上広儀らに船で全島を一周させ、樺太にも別働隊を派遣して大勢を把握し、その成果を「正保国絵図」に反映させています。しかし画期的だったのは、授業でも触れた天明5〜6年(1785〜8…

今までの歴史のなかで、領域国家の抑圧に負けなかった民族は、存在しなかったのでしょうか?

歴史学者・政治学者のジェームズ・スコットが研究している、中国西南部から東南アジアの山岳地帯に住む少数民族たちは、焼畑農耕や狩猟を主な生業に移動を繰り返し、突出した首長を持たない平準化された社会を営み、文字も持たず、歴史や神話をも柔軟に改変…

松前藩は、なぜアイヌとの良好な関係を保とうとしなかったのでしょうか?

もともと松前藩の側に中華思想的な夷狄観があり、アイヌに対する優越性が存在したことは確かです。そこへ東北の不作を契機とする財政の逼迫があり、藩政を維持するために抑圧的な態度を取らざるをえなかったのでしょう。環境史のところで言及しますが、実は…

そもそも、なぜアイヌに対して差別的な考えが生まれたのですか? / 言語や服装、文化の相違が原因でしょうか? / 松前藩とアイヌが、意識的に平等だったのはいつまででしょうか?

アイヌの人びとに対する差別感情は、古代の蝦夷の人びとに対するそれに起源します。古代国家は中国王朝の中華思想を受け容れ、自らを世界の中心として認識し、周縁の人びとを夷狄として疎外し、その生活文化を中央=文明との対比において野蛮化してゆく。「…

松前氏の系図について、パワーポイントの本文には「安東」氏、系図には「安藤」氏という表記がありました。どちらが正しいのでしょうか。

どちらでも表記しますので、どちらも間違いではありません。

清朝のホジホン/サルガンジュイの制度ですが、女性側の抵抗はなかったのでしょうか?  / 辺民に娘を与えるのは嫌だという反発は存在しなかったのでしょうか?

サルガンジュイとなった女性たちの父親は、三等侍衛、護軍参領、前鋒、馬甲、驍騎校、委署親軍校などとなっていますが、これらはほとんど禁旅八騎、すなわち北京において皇帝を守護する親衛隊の一員です。その娘たちにとって、辺境の有力者の妻になることは…

もしアイヌが松前藩に服従していなかったら、現代まで独立国家として残っていることができましたか?

アイヌが国家化しえたのかということは、現代学界において盛んに議論されていることのひとつです。近世に入る段階では特徴的な首長制社会に到達していたわけですが、この情況を「すぐにでも国家になりえた」と表現する研究者もいるようです。しかし、クナシ…

「文字を失う」伝承のお話がありましたが、そんなことは本当にありうるのでしょうか。アジア圏にそうした伝説が多く残っているということは、何か理由があるのでしょうか?

世界には、「かつては盛んに使用されていたけれども失われてしまった」文字は幾つも存在しますので、民族が「文字を失う」ことはありえないことではありません。ただし、アジアなどで広汎にみられる文字喪失伝承は、例えば東南アジア地域の歴史人類学的研究…

アイヌを示す言葉が史料のなかで幾つか出てきているのですが、どのような基準で分けられているのでしょうか?

授業のなかでも言及しましたが、例えば「骨嵬」は、アムール川流域の諸民族が用いるツングース諸語、ニヴフ語などでアイヌを意味する"kuyi""kui"に、漢字の音を当てたものと想定されています。これは元朝の表記ですが、清朝には「庫野」という表記もみられる…

中近世のアイヌ文化は、現代でもアイヌたちによって行われているのですか?

社会や経済のあり方が変われば、伝統文化も変質しますし、また維持できないものも出てきます。現在、日本列島全体で伝統的な年中行事が消失しつつありますが、とくにアイヌの場合は、近代における同化政策の影響で、破壊されてしまったものも多くあります。…

現代ではアイヌ文化は海外からの関心が強くなっていると聞いたことがあります。何がきっかけなのでしょうか?

やはり、エコロジー・ブームの関係が大きいですね。アイヌだけではなく、北方狩猟民などの少数民族は、自然環境と共生する文化を自らの特徴として打ち出しています。アルネ・ネスの唱えたディープ・エコロジーなどでは、その憲章において、自然に密着したフ…