日本史特講(10春)

レポートの評価基準について書いておきます。参考にしてください(基本的に「日本史概説I」も同じです。重複しますが、別カテゴリーで掲げておきます)。

ポイントは4点あります。まず1点目は、講義の内容が踏まえられているか。別に私の話に賛成しろといっているわけではなく、批判であってももちろん構わないわけですが、ちゃんと講義を聞いて理解していることを示してほしいわけです。例えば、まず「はじめ…

オシラサマという名称は馬と関係なく付けられたのでしょうか。 / オシラサマの神話において、主人公が馬であることは何か意味があるのでしょうか。蚕と馬とは結びつかないのですが。

オシラサマという呼称蚕の影響でしょうが、その存在自体は、遠野で養蚕が始まる江戸中期以前に遡るようです。近年では赤坂憲雄氏らによって、アイヌのイナウや、さらに北方の民族宗教と結びつくアジア的広がりが指摘されています。また、馬と桑・蚕との繋が…

狐との婚姻譚に関して、後の時代には人に化けられるのが狸、狐、猫に限られてくるのはなぜでしょうか。これらの動物が特別視されるファクターとしては何があるでしょうか。

いわゆる魔物と位置づけられる動物ですね。その背景には、彼らが里と山とを行き来する(猫の場合は、里にいながら突然姿を消す)境界的存在であるとの認識が隠れています。人間生活において身近な存在でありながら、一方で理解しがたい未知の面も持っている…

『霊異記』上2に、犬の生まれた日が明記されているのはなぜですか。

子供の誕生日を記さないのに犬の誕生日を記すのは笑いをとるためだ、という説もありますが、一歩踏み込んで考えたいものです。12月には、追儺や大祓など魔や穢れを祓う儀式が行われるうえに、15日は四天王(もしくはその太子や使者)が天下を巡行する六斎日…

『霊異記』上2の「能き縁を求めむとして行く女なり」とは、占いの一種を意味しているのですよね?

『霊異記』上10に、路上でたまたまゆきあった僧を勧請して供養をしてもらうという、やはり同じような占いの一種がみえます。路上という公の場は神仏の力が働く空間でもあるので、それに託して吉を得ようとする方法ですね。『万葉集』にみえる橋占や、辻占な…

ブリコラージュ的営為とは、鎌倉以降の中国文化の消化と再構築を指しているのですよね?

鋭いですね。そのとおりです。例えば鎌倉仏教の成立などでは、この問題が非常に大きく作用しています。例えば親鸞は、『大宝積経』巻第17/無量寿如来会第5-1の、「心或不堪常行施、広済貧窮免諸苦、利益世間使安楽、不成救世之法王」というくだりについて、…

三森山のお堂に四天王の名前を書いた幡が立っていましたが、生と死の狭間に四天王を祀るというのはどういう意味があるのでしょう。

とくに、四天王であるということと、死者の世界の入り口であるということに、繋がりを見出しているわけではないのだろうと思います。それぞれのお堂に安置されている如来を守護する存在として、四天王の幡を立てて飾っているに過ぎないと思われます。しかし…

いろいろ認識を新たにしましたが、それでもやはり供養は生きている人間に対してのもの、という印象は拭えません。

重要な指摘です。原始仏教などはむしろ、宗教は生きている者のためにあると割り切ってしまっており、死後の世界について考えることなどは奨励しません。東の端まで伝わってきたその仏教が、極めて死と密接に関わる様相を呈しているのは、東アジア世界の宗教…

ノリワラが神様の言葉を代弁するというのがありましたが、かなりカルト的なものだと感じました。村の人たちは、本気で信じてやっていたのでしょうか。

必ずしもカルト的とはいえません。なぜなら、あのような神懸かりが、太古から列島に受け継がれてきた祭祀の中核的部分だからです。近現代の世の中になって、村人のなかにはその意味、価値を信じていない人もいるかも知れませんが、それが命脈を保っていると…

金沢の羽山ごもりにおいて、途中に出てくる女性たちやオッカア役の人が口に紙を1枚咥えていましたが、あれは何か意味があるのですか。

ぼく自身ちゃんと調査したわけではないので憶説で述べますが、「口封じ」の自戒であることが考えられます。つまり、言葉を発してしまうと紙が落ちてしまうので、紙を咥えることにより口を封じておくということ。それではなぜ口を開けてはいけないのかですが…

中国でのトーテミズム研究の現状を教えてください。

とにかく少数民族の文化に多くの事例が残っているので、研究自体は大変に盛んです。しかし個人的に気になっているのは、講義でもお話ししましたが、やはり想像上の動物を始祖とする信仰をトーテムとみなせるか、という点です。確かに始祖として崇めていた動…

大本教の教祖母子の関係は、邪馬台国の卑弥呼と弟王との関係に似ていると思うのですが。また、これらの新興宗教は現在のスピリチュアル・ブーム(『オーラの泉』など)とは何が違うのでしょう。

女性が神霊を憑依させて託宣を下すシャーマンとなり、男性がその神語りを通訳する「審神者」の役割を果たすというのが、アジアのみならず汎世界的に存在する宗教者の一形態です。大本教や天理教の場合も同じ形式を採っていますし、近世以前の民衆宗教の形態…

『山海経』で描かれている周辺世界には鳳凰らしきものもいるようですが、それは周辺を必ずしも野蛮視せず、信仰の対象ともしていたということでしょうか?

確かに、龍や鳳凰などは神的な動物とされていながら、中原からみた周辺世界に住むとされていました。しかしそれは、人里離れた深山幽谷の清浄な地に住むという意味で、周辺世界の差別化とは少々別レベルの意味づけだったのでしょう。ただし、前近代の分類と…

『遠野物語』で、行方不明となった女性の葬式をするとき、なぜ枕が形代とされたのでしょうか。

人間は睡眠中に夢をみますが、古代中国などでは、枕のなかに異界が開けている、枕が異界への入り口であるとの認識もあったようです。とりあえず、近現代的な認識を超えた「境界的存在」ではあったようですね。また、人間の霊魂は頭に宿ると考えられていまし…

毛衣が、なぜ羽衣に変わってしまうのか気になりました。

この変化には、恐らく仏教の天界のイメージや、神仙思想や道教の仙界のイメージが関わってくると思われます。そこでは、天人や天女、仙人や仙女たちが、軽やかな衣を纏って天空を飛び交っているわけです。とくに神仙境については、漢代以降に具体化され、六…

『捜神記』の山人が、女を攫って子供を産ませるのに、それを返してしまうのは何故なのでしょう。

これも憶測に過ぎませんが、モデルとなった少数民族の母系社会を反映しているのだ、とみることもできます。生まれた子供は母方の家で養育させる、という発想ですね。この猳国がいかなる実態を持つのかは不明ですが、外婚のみでなく内婚もあったのだと考えれ…

『捜神記』などで異人が怪物として扱われていましたが、これは日本の妖怪である山姥などとは違うものなのでしょうか。

山姥には、縄文期からある程度の信仰が確認できる「大地母神」のイメージが残存している、という考え方があります。確かに、図像的には乳房が強調されており土偶を連想させるところもありますし、金太郎伝説をはじめ子供を育てるエピソードが多いのも重要で…

『捜神記』の355〜357の話ですが、以前に蟹=多産ということで産屋との関わりが論じられていました。海亀も多産のイメージがあるのですが、この話もそうでしょうか。

その可能性はあります。次回以降に触れることになると思いますが、やはり少数民族のトーテムを描いた盤瓠神話は、雄ですが「犬」が取り上げられます。蟹や亀ほどではないですが、犬も多産や安産の象徴とされたり、守り神とされたりする動物です。常に子孫の…

天人女房譚などの原型が中国の怪異譚にあるとのことですが、その他「見るなの禁」など、日本の昔話によくみられるモチーフに中国由来のものはあるのでしょうか。

中国の神話伝承は日本の原型の宝庫といってよいほどで、探せば探すほどよく似たものが出てきます。よって漢籍の知識がないと、日本の神話、伝承の研究も底の浅いものになってしまいます。例えば、日本の神話のうち「見るなの禁」が最も早く現れるのは、『古…

「任谷」が羽衣を着た男に犯され蛇の子を妊娠したというのは、禁忌を破ったために蛇を孕むことになったのですか?

禁忌に関わる記述はありません。自分ではどうしようもない怪異、不思議な出来事について描いたものか、あるいは根底に異類婚姻の問題が存在するのかも知れません。腹を割かれた任谷は宮中へ出仕して宦官になった、というのが結末ですが、男性機能を喪失する…

『捜神記』を読む際、中国哲学との関連もあると思うのですが、今日掲示されていた史料では、それがあまり見受けられませんでした。基層部分に哲学は広がったのでしょうか。

『捜神記』に収められているような伝説・説話は、中国哲学的に高度なものはあまりみられません。ただし、講義でお話ししたように五行志と密接な繋がりを持っていますので、陰陽・五行思想を反映する部分は多くあります。その前提として、戦国末期には集成さ…

レヴィ=ストロースのトーテム理解と、伝統的なトーテム理解の差がよく分かりませんでした。

授業では何度も説明しましたが、確かにこれは難しい問題で、レヴィ=ストロースの思考も著作によってかなりブレがあることもあります。『今日のトーテミスム』『野生の思考』ではラディカルですが、その後の『神話論理』シリーズでは、本質主義的な理解に近…

無痛文明は、ある意味で「動物の主」にとって代わったのだと思いますが、例えばキリスト教や仏教で行う食前・食後の祈り・感謝の言葉のなかに、発想としては生きているように思います。

そうですね。「祈りの言葉」については、時代的な変遷もありますし、言葉に込められる意味も様々と思いますが、キリスト教・ユダヤ教の基本的な枠組みは、驚くほど動物の主に似ています。やはり元来は遊牧民の宗教で、供犠を根幹にしているからかも分かりま…

対称性についてですが、「自己」は「自我」がなければ成立しないのでしょうか。思考を持つかどうか分からない「物体」や「植物」は、「自己」や「他」として認められないのでしょうか?

認識のレベルで主体と客体が弁別されることは、もちろん前提としてあるでしょう。しかし、両者の差異を基準に、主体とは「こういうもの」、客体とは「こういうもの」という意味づけが始まりますと、そこには高次の「我」と「汝」が出現してきます。対称性社…

自ら負債を抱え込むのは、人間を自然に対して自ら下位に置く行為のように思えるのですが、それは人間が意図せず造ってしまった構造ということでしょうか。

それこそが、講義でお話しした「相対化のベクトル」で、そうした自己否定を行えるのが人間の不思議なところなのです。また、自然と人間との関係を考えるうえでの、最も重要な鍵のひとつです。

贈与や蕩尽によって象徴的な権力が発生するのは分かるのですが、それは多分に負債を感じる側の「感じ方」如何に関わっているのではないでしょうか。自然と人間との関係に当てはめたとき、少なくとも現代人にとって、どれだけ「負債を感じている」のか疑問に思います。

そのとおりですね。しかし問題は、実は負債を感じる側の「感じ方」にあるのではありません。その「感じ方」を生み出している、贈与の主体と客体との関係にあるのです。講義で説明したポトラッチに即していえば、贈与する側は、相手が負債の念を抱くと分かっ…

狩猟時の感情の変化を分析するのは面白いと思いました。感情というのは、史料からでも研究できるのでしょうか?

80年代以降の日本歴史学に極めて大きな影響を与えたフランスのアナール学派では、心性史・感性史の分野が大きく展開し、人間の感情も重要な対象となってきました。例えば、人間はいかなる対象に恐怖を覚えてきたのか、またその表現はどのようなものであった…

狩猟の思想的背景は重要と思います。最近の『ザ・コーヴ』も、どのような背景で行っているものなのか、ちゃんと考えて映画を撮ってほしいと思います。

もちろんそうですが、そこにはいろいろ難しい問題が隠れています。文化相対主義、すなわちあらゆる文化にはそれぞれ独自の価値があり、その間に優劣はないという見方からすれば、太地町のイルカ漁も捕鯨も尊重されるべきでしょう。しかし、伝統的なものがす…

そもそも狩猟とは、遺伝的行動様式なのでしょうか、それとも文化的行動様式なのでしょうか?

この問題は人類学における重要な議論の焦点です。1960年代頃、レイモン・ダートの「狩猟仮説」と呼ばれる学説が、極めて肯定的に扱われ信じられていました。そこでは、まさに狩猟は人類の「本質」を示す行為で、その効率的な遂行が大脳の発達を促し文明の構…

鯛女が蛇に対してとりつけた約束を守らない、というのは、不妄語戒の破戒にならなかったのでしょうか。

これも、それこそ方便なのでしょうねえ。蝦蟇を救うために嘘をついたけれども、それはより大きな善業のために正当化される。だからこそ、簡単に仏教の論理に説得されず、どのような問題が隠蔽されているのか、正当化されているのか、批判的に考える必要があ…