2009-06-01から1ヶ月間の記事一覧
この源流はやはり中国神話で、太陽のなかにいるという3本足の烏を指します。なぜ3本足なのかについてははっきりとは分かりませんが、中国では殷代より、3という数が宇宙の本質を示す基礎的な聖数として扱われてきました。漢代には、それが天・地・人を意…
つまり、都城制を導入して藤原京の建設を始める以前は、唐の長安城についても「自分たちが建設するもの」と思ってみてはいなかったのでしょうね。ですから、天智朝から大宝元年に至るまで遣唐使が中絶していた時期、中国都城の実態については圧倒的に情報が…
この時点では、まだ日本は辺境の蛮族に過ぎませんので、日本の文物への評価は「東夷がけっこうがんばっているね」程度のものであったと思います。しかし平安期に入ると、一部仏教の典籍などでは、「これほどのものは中国にもない」という賛辞を与えられるま…
日本は倭の五王の後南北朝時代に至るまで、中国王朝に対して朝貢という形の外交は結びますが、それに応じて中国的な爵位や王号を賜与されるといった冊封は受けませんでした。一方の朝鮮半島は、常に歴代中国王朝との間に緊張関係を保ちつつ、結局は冊封を受…
中国の正史『旧唐書』は倭国伝と日本伝を併記し、両者の関係について、1)倭国と日本国は別種である、2)倭国が国号を改めた、3)日本国が倭国を併呑した、という3説を挙げています。恐らく、唐でも「日本国を名乗る使節の実態」をよく把握していなかったの…
絶対化したというのは語弊がありますが、建設すべき国家の理想としたということですね。それは、唐王朝の政治・文化がアジアにおけるスタンダードであり、それに準拠しなければ順調な外交を行いえなかったためです。唐の政治・文化を輸入して文明国となるこ…
まずこれらの法令で結髪が義務付けられているのは、あくまで中国的な習俗を身に付けさせようとする風俗矯正です。何度も発令されているということは、宮都に居住した貴族層はともかく、一般にはなかなか法令が浸透しなかったことを意味するのでしょう。シャ…
講義でもお話しましたが、天皇が現御神と位置づけられてゆくのは天武・持統朝以降のことなので、壬申の乱が神の怒りの結果だと表現されたとしてもまったく不思議はありません。また、天皇即神の成立以降でも、神が天皇に祟った事例は幾らでもあります。そも…
例えば、有名な飛鳥の高松塚古墳では、棒で丹念に固めた墳丘の版築層から、筵の跡らしきものが発見されています。これは、土が崩落しないように筵を敷き、そのうえから土を固めていったもので、古墳中期頃より各地の治水堤防などでみられる「敷葉工法」と同…
恐らく、国家において試験を課すというより、各地域で優良な実践者を推薦する方式だったのでしょう。卜部については分からないことも多いのですが、平安期の記録には「亀卜得業生」という言葉も出て来ますので、国家的に亀卜技術者を育成するシステムも作ら…
どこかで聞き間違いがあったものと思います。弥生時代の鹿を用いた卜骨は列島各地から発掘されていますが、古墳時代以降に出現する亀甲を用いた卜甲は、対馬・壱岐など玄界灘周辺と、南関東の海岸付近からしか見つかっていないということです。それらの地域…
やはり、『古事記』『風土記』『日本書紀』にはそうした史料が多いですね。それはこれらが、宮廷や各氏族、各村落共同体などに伝わった伝承を主要なソースのひとつにしているからです。それらでは、神話や伝承が歴史とイコールにみなされていましたが、伝承…
「月読」は農事暦に関連しますが、月の色などを何らかの予兆とみる卜占的な風習は世界各地にあったようです。壱岐氏が月を信仰するのは、やはり海上交通のよるべとしてでしょうが、現地にはやはり航海の安全を祈る卜占が発達していました。遣唐使の渡海の際…
よくは知りませんが、当然地名から付けられているはずです。有栖川宮は旧高松宮で、御所の東北に邸宅が位置していたはずですから、場所的には東西に隔たっていますが、改称時に何か特別の思いがあったのかも分かりません。少し調べてみます。
ポイントは4点あります。まず1点目は、講義の内容が踏まえられているか。別に私の話に賛成しろといっているわけではなく、批判であってももちろん構わないわけですが、ちゃんと講義を聞いて理解していることを示してほしいわけです。第2に、問題意識の明…
【テーマ】講義で取り扱ったトピックから、〈渡来〉を中心に据えて任意にテーマを設定し、史料・研究文献を読んで調査して、自分なりの考えをまとめなさい。なおその際、講義の内容を踏まえること(批判しても構わない)。 【枚数・形式等】A4版用紙使用で…
古代仏教史全体を俯瞰するのであれば、速見侑『日本仏教史 古代』(吉川弘文館、1986年)が便利です。また、最新の史料批判を活かして、東アジアや民衆の視点から古代仏教を読み直した著作に、吉田一彦『民衆の古代史』(風媒社、2006年)、同『古代仏教をよ…
はっきりとは分かりませんが、恐らく礼学の研究から発展したものでしょう。大化前代の土師氏は古墳築造や喪葬儀礼、すなわち「凶礼」に従事していました。推古朝以降、ヤマト王権の宮廷は急速に中国的礼儀を受容してゆきますが、当然、凶礼の導入も図られた…
よくあります。写本のなかにはかなりいい加減に写しているもの、内容を読んだり理解した形跡がなくひたすら書き続けただけのものが多くあります。それらのなかには、並んだ行に似たような字や言葉があると簡単に重複する文章を書き足してしまったり、逆に間…
忍壁親王がいかなる能力を持っていたのか物語る史料はないのですが、確かに、国史編纂や大宝律令の選定に当たっているのは、それなりの学識を評価されてのことだったと思われます。オサカベの名は皇子・皇女の養育のために設けられた名代の名称と考えられま…
節は、中国の場合、羽や牛の尾で作った旗のようなものだったようです。日本ではその材料が揃わないので、古代中国で王から将軍が「斧鉞」を託されたように、刀を与えることで代用しました。これを与えられたものは、王の権限のうち自己の意見で刑罰を断行す…
まずは、日本古代国家の法典理解が充分ではなく、唐王朝のように格式を連動させて編纂することができなかったのが原因でしょう。しかし、天武朝以降、仏教界と僧侶の存在は国政上極めて重要になっていたので、彼らの行動を規制し王権に従属させる必要があっ…
いろいろ残っています。例えば君主に対する謀反などは、賊盗律の謀反条に、「凡そ謀反及び大逆せらば、皆斬。父子、若しくは家人・資財・田宅は、並に没官。年八十及び篤疾は、並に免せ。祖孫・兄弟は、皆遠流に配せよ。…」などと詳しい規定が出ています。し…
必ずしも、すべての皇子についてそうした措置を取ったわけではないと思います。持統自身が太政大臣に任命した高市を除くと、天武の皇子のなかでは刑部が一番の実力者であり、持統にとっては煙たい存在であったのかも知れません。また講義でも指摘したように…
画師は個人的な職業ではなく、国家に奉仕する官僚です。中務省画工司に所属し、宮中の絵画や彩色を担当します。
近世には形式化し、位階と結びついた名称として、「石田治部少輔」「勝安房守」などと使われます。養老律令は、基本的には明治維新まで維持されていましたので、制度としては1000年以上続いたことになります。
もちろんそうです。「単一民族」などという発想はまやかしでしかありません。第一、日本列島は縄文時代以前より南北から相当数の人間集団の流入があり、その複合的な文化が今日までの基礎となっているのですから、「ヤマト民族」などという括り自体が政治的…
これは中国王朝の方式に倣ったものですが、祥瑞が現れるなどの祝福すべき出来事があったり、逆に災害が相次ぐなどの忌むべき事態となったときに、時間を一新して幸いを定着される、あるいは災禍を払拭する意味で改元がなされるのです。その背景には、王が空…
確かに、後世の伝承や氏文などに登場する人間もいます。例えば土師宿禰甥などは、菅原道真の流れの始祖に位置付けられてもいます。しかし、古代においては、私的な文書の残存が極めて少ないので、かつて存在していたとしても現在はみられなくなってしまって…
【テーマ】講義で取り扱ったトピック(「おまけ」も含む)から自分でテーマを設定し、史料・研究文献を読んで調査して、自分なりの考えをまとめなさい。なおその際、講義の内容を踏まえること(批判しても構わない)。 【枚数・形式等】A4版用紙使用で4,00…