2014-01-01から1年間の記事一覧
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まずは肖像画自体に付与されてきたさまざまの伝承が参照されますが、それと肖像画自体に埋め込まれた情報が齟齬を来すときに、研究者による多様な検証が行われます。これまで足利尊氏像とされてきた騎馬武者像は、松平定信の編纂した『集古十種』に尊氏像と…
天皇はあくまで日本国内でのみ権威を持つものですが、「日本国王」は明の冊封体制が構築された東アジア世界において公認された国位です。その世界においては、天皇より義満の方が地位が上ということになります。義満は明との交渉を開始したとき、懐良親王が…
斯波義将については、恐らく伝聞によるものでしょう。その背景には満済と同じく、儀礼そのものよりも「日本国王」という称号、建前であっても「臣属」するという形式に対する違和感、抵抗感があり、印象が肥大化していったものと思われます。満済自身は、義…
天皇(厳密には院政)が権威を失っていたとしたら、南北朝の問題も起こりえませんし、征夷大将軍の位を得て幕府を開くという方途も意味をなしません。当時の価値の源泉も未だ天皇にあり、その主宰のもとでこそ、義満と室町幕府は権力を構築できたのです。な…
明の使者の言い分も聞き、情報も得ていたので、義満の行動は意図的であったと思われます。やはり、盲目的な臣属をよしとしなかったのでしょう。建文帝は、自らの政治的基盤を堅固にするため、そんな義満に妥協して彼を国王として認めようとします。しかし、…
明使により国書が読み上げられるなら、それは中国語です。実際に義満が読んだのなら、日本語で読んだのでしょう。当時の日本において、宋代中国と盛んに交流してきた五山の禅僧は最高の知識人であり、中国語と中国文化に通じた幕府の実務官僚としても活動し…
義満の朝貢の場合は、恐らく、外交実務を担当した五山の禅僧が先例を調べ、博多商人などからも昨今の情報を得ていたものと考えられます。商人の側には、中国や朝鮮半島との独自のネットワークが存在しましたので、明に対する他国の朝貢の情報などももたらさ…
実は、日本が中国王朝に通交するということ自体、9世紀の遣唐使停止から500年余りも行われていなかったので、非常に画期的なことでした。その間に民族意識も昂揚してきていたので、歴史を知る貴族、知識人層の間でも、中国王朝に臣属することをよしとしない…
明のもたらした大統暦は、元において制定された授時暦を改名したものでした。暦の制定と交付は天皇・朝廷の役割でしたが、義満の受け取った大統暦は採用されず、貞享2年(1685)における渋川春海の貞享暦(大和暦)への改定まで、800年余りに渡って唐の宣明…
東アジアの外交においては、古代から中国が帝国として君臨し、外交を結ぶ周辺諸国は、朝貢して属国となるか絶域の外国として扱われるか、どちらかでした。この伝統は、相次ぐ征服王朝の出現や欧米のアジア進出によって崩れてゆき、周辺諸国それぞれの自尊意…
講義でも述べましたが、戦後教育は戦前・戦中の皇国教育を民主教育へ転換するところから始まりましたので、明確な思想統制は行われていません。しかし国民国家の歴史教育である以上は、ナショナル・ヒストリーの醸成に力が注がれていることも、また否定でき…
そんなことはありません、北條氏もしっかり逆賊として扱われています。承久の乱で3上皇を配流にした義時などは、その代表といえるでしょう。そもそも北條氏は、幕府政治の制度的確立を達成した泰時、時頼以外は、多く源氏将軍を蔑ろにした存在として、武家…
基本的に、歴史学においては「史料は嘘をつくものである」ことが前提で、そこから事実を追究する方法が「史料批判」と呼ばれるものです。非常に個別的で複雑な方法であるため、なかなか一言では言い表せないスキルですが、根本となる方法は情報の渉猟・網羅…
〈歴史修正主義(historical revisionism)〉とは、表面的には、支配的な歴史の物語について異議申し立てを行い、隠蔽された事実性を暴露して修正をなすことですが、強固なイデオロギー性を批判する〈客観性〉を装っていながら、内実は極めて政治的、恣意的…
レジュメに書いたとおり、選択ではなく記述形式です。よく読んで内容を理解してください。
何らかの参考文献から意見を引用するとき、誰の何の本によった、と明記していただければ結構です。つまり、自分の意見と他者の意見、事実と意見をしっかり区別できているかどうかが問題です。
戦後の1950年、法相宗の本山のひとつであった法隆寺が独立し、聖徳太子を開祖とする一宗派を構築したものです。太子関連寺院の法輪寺、法起寺、中宮寺などがその傘下に入りました。厩戸王自身は宗派を構築する考えなど持っていませんでしたので、後世の人々…
聖徳太子関連寺院の周辺では、庶民層にも太子信仰が存在した可能性はあります。しかし、『日本書紀』に語られているようなイメージは、文字の読めない庶民層に伝わるルートがありません。彼らの意識するところではなかったと考えられます。
授業で紹介した『神仙伝』は4世紀頃の成立で、キリスト教が中国へ伝来する遥か以前のものです。よって、直接キリスト教の影響を受けた、ということは考えられません。しかし、この時期に成立した中国の志怪小説(怪異な出来事を収録した「史書」)のなかに…
日本で最初に用いられた神仏習合の論理は、「神身離脱」というものです。これは、仏教が神を「前世に報いを受けた苦しみの身」と捉え、仏教的作善を施すことでそれより解脱させるという形式でした。中国で生まれた六朝の当初は、実際に対象となった祠廟など…
もちろん、東アジアの宗教は儒教・仏教だけではありません。この2つが重視されたのは、やはり中国王朝の文化を代弁する存在であったからです。儒教は国家を運営し支配するための理念、仏教は国家を守護する神秘的な力として、中国王朝と冊封関係、外交関係…
そうですね、よく分かっていないのですが、他田舎人氏か金刺舎人氏に養育された可能性はあると思います。両者は多く信濃国に分布しますが、自身が美濃に湯沐=封戸を持っていた天武は、壬申の乱の際に東国へ脱出して美濃不破へ本拠を置き、東国の兵を動員し…
東アジアにおける王権は、専制君主的性質を持つ王や皇帝を、貴族層たる士大夫が牽制・抑制するという歴史のなかで育まれてきました。王・皇帝の権力ばかりが肥大化してゆくと、国家は私物化され、そのパーソナリティーや能力によって命運が左右されてしまう…
実在の厩戸王が仏教興隆に功績を挙げたことは、法隆寺や四天王寺をはじめとする幾つかの寺院、中宮寺や広隆寺などの関連寺院から明らかです。彼の主催する上宮王家に瓦の工房があり、その他の寺院へ瓦を提供したことも、考古学的に明らかになっています。ま…
教科書はそれなりに地位のある研究者が編纂していますので、研究の現状を「知らない」ということはありません。しかし、弁護をしておくと、彼らの考え方がストレートに反映されるわけではなく、出版社の意向や文科省の審査が絡んできますので、さまざまな抑…
あまり変わらないかもしれませんが、後の時代における太子への言及の意味が違ってきます。古代国家の構築したイメージが平安時代を通じて肥大化し、中世・近世・近代と国家発揚に用いられてきた。そのそもそもの形が虚構だったというのは、皮肉という以外に…
授業でも述べましたが、書き方を変えればよいだけです。『日本書紀』において厩戸が聖徳として描かれたことは事実ですので、「実際の厩戸王はこれこれであったが、『日本書紀』は中国文化に熟達した聖賢として彼を祭り上げて「聖徳」と呼び、日本の文明的先…
研究の現状は、『日本書紀』に載ることを必ずしも事実とは認めない、ではどこまでが事実でどこからが虚飾なのかを、細かく議論する段階となっています。「学術的」見地から、「聖徳太子」の実在を肯定する見解は、その意味では存在しません。程度の差、とい…
間違いがあったわけではなく、日本の国王が単なる「王」ではなく「天皇」であることを標榜するため、神話的存在である神武天皇から「天皇」「皇」の字を用いているのです。日本で最初に「天皇」を名乗るのは天武ですが、当時は唐や新羅でも天皇号が用いられ…