2011-05-01から1ヶ月間の記事一覧
結局、神話はさまざまなモチーフを変換して複数の物語を構築してゆきますので、世界中でよく似たモチーフを用いていたり、同じような内容の物語が語られる場合が出てきます。それらは、拡大と変質を繰り返しつつ特定の地域で伝承されていったり、書承の形で…
現実的に考えれば、後ろから追いすがってくる黄泉の悪霊たちを却ける動作と受け取れます。しかし、背後は人間にとって最も無防備な部位のひとつであり、確かに呪術的な武装も必要です。「振る」という動作については、辟邪や神招きの「比礼を振る」呪術が知…
諸説ありますが、やはり女性象徴であるという考え方がもっとも分かりやすいでしょう。生命が生まれ出づるところであり、それゆえに強い生命エネルギーを持って、辟邪や不老長寿の効能があるとみなされた。『春秋左氏伝』や『礼記』などのほか、戦国秦の出土…
恐らく、東アジアの極めて基層的な、それゆえに共通性の高い文化要素のひとつなのだと思われます。必ずしも、伝播によってある場所からある場所へ波及したと考えなくてもよいでしょう。私が祭祀の調査に訪れた納西族では、穢れや悪鬼に対しても「指路」を説…
横穴式石室は、その物理的構造だけでなく、一連の儀礼や思想を伴って中国―朝鮮半島から輸入されてきたと考えられます。中国では、漢代に王族墓・貴族墓の内部構造が巨大化し、生活空間としての体裁が整備されてきました。志怪小説などのなかにも、地下を死者…
きちんとした説明があるわけではありませんが、私は、前回お話しした「山の神聖視」と同じ情況が起こったのではないかと考えています。すなわち、墳頂が神聖化され「禁足地」になったということです。前期は遺体に強い両義性を認め、崇めると同時に封じ込め…
装飾古墳自体が朝鮮半島から将来されたものなので、当初はあくまでも意匠の問題であったと思われます。しかし、中国の陰陽五行説(木・火・土・金・水の五元素にあらゆるモノ・現象を配当し、その生成関係や対立関係から世界のありようを説明する考え方)で…
以前の繰り返しになりますが、もう一度書いておきます。古代の赤色顔料には、主に2つの種類があります。ひとつは酸化鉄系のベンガラ(弁柄)で、いわゆる朱を指します。インドのベンガル地方の原産なのでこう呼称されるようです。もうひとつは硫化水銀系の…
埼玉県には、本庄や長瀞で笑う埴輪が出土しています。現代では自然な感情の表出も、古代には呪術的な力があると信じられていたようで、例えば授業でお話しした哭泣も死者の魂を呼び寄せる効果などを期待されたわけです。その観点から笑う埴輪をみると、これ…
直接的な繋がりは実証できませんが、墳墓に人物像を配するという発想は同じで、これはやはり列島が輸入した考え方である可能性があります。ただし、朝鮮半島の墳墓などと比較してみると、日本は「土人形」が特別に発達しているような印象があります。弥生時…
恐らく前方後円墳が朝鮮半島にあるという話で、騎馬民族説と連結させて考えたものでしょう。もちろん大王の陵墓も前方後円墳ですが、注目しなければいけないのは、大王以外の墳墓にもその形式が用いられているという点です。規模の差こそありますが、前方後…
後期になりますと、渡来系氏族の周辺でみられるようになります。古墳時代の環境の項目でお話しした陶邑からも、登り窯を火葬に用いた痕跡がみつかっていますし、遺灰を納めた石棺を蔵する古墳も出土しています。
『日本書紀』垂仁天皇32年条に、喪葬を管轄した土師氏の祖 野見宿禰が、殉葬の悪弊を止めて埴輪を始めたとの伝承が出てきます。すなわち、土師氏の始祖神話、埴輪の起源神話に当たるものです。しかし注意しなければならないのは、日本の古墳からは、そのよう…
法則としてしまうのはどうかと思いますが、衣食住の根底的パターンは全人類に共通しているのですから、ある程度類似の思想・思考や神話が生じることは、むしろ当たり前なのだと思います。問題は、その共通性を時代や環境との関係から「固有性」に転換するこ…
深遠な問題ですね。これは、自分にとって大切な誰かが亡くなったときに、自ずとひとつの解答が得られるかも知れません。今は、皆さんへ具体的に回答をするのは控えておきます。
中臣氏の原初形態の一部は、恐らく鹿卜(いわゆる太占)を担っていた集団であったと思われます。近年の古代氏族研究の進展において、ウヂ名が職掌名を反映し、各地の品部などと密接な関わりを持ち国政を遂行している集団は、自然発生したのではなく王権に意…
いいえ、藤原氏は「政」、中臣氏は「祭」という、祭政一致であったマツリゴトの分化が起こります。しかし、歴史叙述に関する職掌は藤原氏へ移るようですね。これは、律令国家のなかで、歴史叙述に関与する機関が太政官寄りとなり(内閣書記である弁官局にて…
亀卜の開始は古墳時代ですが、関連の遺物が発見されているのは、玄界灘周辺と関東南部海岸地域に限られます。律令体制における卜部の規定をみますと、伊豆国・壱岐国・対馬国が卜部の貢上国となっており、上記の遺物出土地域とほぼ重なります。いずれも海上…
直接占いと通じる部分もありますが、世界を表現する基本的な数であることが大きいでしょうね。しかし、3人のうち誰かが賢い、あるいは愚かだという設定は、「どれかが当たりである」という認識の表れかも知れません。昔話を陰陽五行で読み解くという人もい…
基本的に官司の建物が面する「庭」であったろうと思います。庭は、我々が現在考えるような広場であると同時に、神を招くための場所でもあり、祭祀や楽舞などは庭で執り行われたわけです。恐らく特別の竈が設営され、卜占をなすための「場」が整えられたと思…
そのあたりを充分解明するのは難しいのですが、説話的史料をみていますと、確かに「一回性の重要度」が増してきている印象はあります(すなわち、我々の考える占いのイメージに近付いてきています)。それは、上記の質問への回答のように、王が卜占の現場か…
「焼く」ことと「埋める」ことは、双方ともに「他界へ送る」ことを意味し、恐らく大きな違いはなかったと思われます。しかし、亀甲・筮竹が神霊の意志の宿るものであり、祭器・犠牲が神霊へ捧げられるものであるのに対し、祭服のみが自ら身に付けるものであ…
なぜでしょうね。もともとは、そうするしか鑽鑿を局所的に熱する方法がなかったのでしょうが、それが継続的に用いられるなかで特別な意味が付与されていったものでしょう。祭祀などの神聖な行為は手間を惜しんではならない、本来は合理化や形式化の考えが介…
亀卜の火は、亀卜の場において設営されるカマドから採られるもので、日常生活に用いられる火とは区別されていたと考えられます。しかしそれは、例えば料理を作るのに用いる火は世俗のもので、亀卜に用いる火は神聖だというわけではありません。火自体はいか…
はい、「帛書」といって、竹簡などと併用して絹が使用されていました。これは腐食して後世に残りにくく、史料として残存するものは少ないのですが、1973年に馬王堆漢墓より出土した帛書は、易書、道家書、『五十二病方』をはじめとする多くの医書・養生書、…
いえ、「史」自体は甲骨段階からみることのできる文字です。算木の問題は射儀の命中数を数えるといった解釈で、卜占自体の的中率に関することではありません。また、『説文解字』の「中正なり」という説明は、あくまで後漢の時点での解釈と考えればいいでし…
そうですね、国家の官職制度自体が詳細化・専門化して、分業が進んだ結果といえるでしょう。自ら占断をなす殷王の方が、祭政一致のプリミティヴな王権のあり方をよく伝えています。周王朝では、王権の宗教的権威が王から卜・祝・史へ移管され、機能の拡大を…
流行したと思います。私は、古代の文献に記載される「祟り神」は、古墳寒冷期のなかで形成された宗教思想だと考えていますが(『日本災害史』参照)、それらの記事には、天候不順や飢饉などのほかにやはり疫病の流行が語られています。祟り神の発想のもとに…
恐らく、そうした災害は各地で頻発していたでしょう。古墳自体にも、築造中の事故や、完成した墳丘が土砂崩れを起こすこともあったと考えられます。『日本書紀』のなかには、飛鳥京周辺を整備する過程で、各地に土砂崩れや樹木の枯朽などの事態が発生したこ…
すでに大陸や半島では、数学的知識を活かして精緻な建築物が築造されていました。古墳についても、見た目の感覚だけでは、ほぼ統一された規格を各地へ頒下してゆくことはできません。渡来系の人々の知識・技術を活用して、これまで列島の人々がみることもで…