2007-12-01から1ヶ月間の記事一覧

私は法学部で、歴史学のレポートといってもピンとこないのですが、歴史学の論文を書くうえで一番重要なことは何でしょうか。

とにかく史料を独自の視点で読み解き、新しい歴史像を構築することが論文の核です。そのためには、膨大な研究史の整理と批判のうえに立った問題点の指摘、史料批判の力、厳密な実証に裏付けられた想像力などが、研究主体に備わっていなければなりません。研…

参考資料として配付された『面部気色吉凶法』についてですが、顔にも気の流れがあるのでしょうか。また、それは法則的なものでしょうか。

詳しいわけではないのですが、五行や陰陽の思想はあらゆる占いの前提になっているので、相書の類にもそのように考える系統が確実に存在したということです。占いとはいえ、前近代的な意味ではひとつの科学ですから、そこには当然一定の法則性が設定されてい…

式盤の天盤部分の中心には北斗七星がありますが、どのような意味があるのでしょう。

北斗七星に数えられる星は、地域や時代によって変化があるのですが、やはり天の中心=北極星に連なる点が重要なのでしょう。北極星は天帝の座す星で、紫微宮などともいわれます。

古代において、歴史書などには動物がよく出現するように思います。当時は動物と共存していたから、あるいは特別な信仰心があったからだと思うのですが、その成り立ちや理由に興味があります。

ぼくも大いに関心があります。以前に「日本史概説」で話をしたときには、動物は人間にとって自然界の多くの情報を知るためのメディア(媒介)であり、自然のなかで生きてゆくためには必要なものであった。ゆえに現在でも、親は子供にぬいぐるみやペットを与…

史料3に流星についての話がありますが、当時の考え方では流星や彗星は不吉なものだったのでしょうか。

やはり「星が落ちる」「星が流れる」という現象だからでしょうか、世界的に不吉の象徴とする見方が多いようです。古代日本のそれは、多く『漢書』や『後漢書』の天文志の記述に基づいています。

『日本書紀』が正確な編年体ではないということに驚きました。日本の他の編年体の書物や、中国の史書にも、同じようなことがあるのでしょうか。

編年体に講義で紹介したような記事の配列があるのは、本来は錯簡ということで、原則から外れた例外的な状態になります。『書紀』の場合にそれが特徴的に認められるのは、やはり初めての中国的史書であるという混乱や、史料自体の産出・保管体制の不充分さか…

僧旻にしても南淵請安にしても、良家の子弟が通うような私塾を開いていたということですが、個人的に子弟の親から資金を集めて開いていたのでしょうか。

さあどうでしょうか。僧旻の私塾にしても請安の私塾にしても、いまひとつ実態がよく分からないのですが、公的なものでないとすれば月謝のようなものを集めていた可能性はありますね。あるいは、蘇我氏のような大豪族をパトロンに付けていたことも考えられま…

外来の僧というのは、渡来人と同じ扱いなのでしょうか。それとも、国の庇護下に入るのでしょうか。

原則的に令制では、日本に存在する人民は(国家が把握できなような漂白民、蝦夷など化外の民を除き)戸籍に編入されるわけですから、渡来人も(帰化したなら)公民と同じ扱いになります。一時的に寄留しているだけの留学僧、国家が招いた学問僧らは、治部省…

山背大兄の死が『書紀』と「大織冠伝」で違うのは、後者が蘇我の非道を強調しようとしたからでしょうか。

全体の文脈を通してみますと、実は『書紀』の方が、蘇我氏を中傷する記事(主に天皇に対する僭越な行為の数々)を多く載せています。「大織冠伝」の第四節では、蘇我氏は五巻末の暴臣董卓に準えられていますが、一方で入鹿の才能を高く評価する言辞もみられ…

鎌足は軽皇子の器量に疑問を持ったとありますが、度々逸る中大兄には疑問を抱かなかったのでしょうか。

「大織冠伝」の文脈は、諫言をする忠臣/広い度量で受け入れる名君、という君臣関係を描き出すために述作された虚構でしょう。君主の政は聴政といわれるように、家臣の言によく耳を傾け公正に判断することこそが重要なのです。ゆえに、逸る中大兄を描くこと…

蘇我氏の蔵の管理なども「宗業」に当たるのでしょうか。

倉山田家の宗業ということですね。蘇我氏の諸家は、分析を加えてみると、内政と総括を担う本宗家、外交・対外軍事を担う境部臣(阿倍氏の配下にあって境界儀礼を掌っていた境部を統括、阿倍・安曇氏などとの協力のもとで)、財政を管理する倉山田臣(斎蔵を…

仲麻呂に描かれた〈鎌足〉は、僧旻によって観られた〈爻〉の内容まで知っていたのでしょうか、「自愛せよ」の忠告だけで何かを悟ったのでしょうか。それとも、鎌足の自由意志に基づく行動が、たまたま結果的に乾卦に対応していた、というところが「大織冠伝」のミソなのでしょうか。

面白い質問ですね。次回お話しする三島退去の部分では、「大織冠伝」は鎌足が易筮を行い、出た卦に従って行動しているようにみえます。そこでは乾卦について語られてはいないのですが、彼が卦の内容について自覚的であった(と描かれている)ことがうかがえ…

「僧旻」が正式な名前だというのが印象的でした。僧侶にわざわざ「僧」の字を当てるのはおかしな気がするのですが。

僧旻虚構説が事実とすれば、なぜ道慈は大僧の名である「僧旻」を採用したのでしょうか。

そこがやはり解釈論になってしまう、問題点のひとつですね。ただし、仏教公伝から崇仏論争に至る流れもそうですが、『書紀』は、中国北朝・南朝の仏教史をモチーフに記事を述作している形跡があります。南朝の仏教国家梁において、皇帝を補佐するような高僧…

冬休み中に樹霊婚姻について勉強しておきたいので、参考文献を紹介してください。

やや専門的ですが、以下が主なものです。基本的な視角は1・2で、より広く事例を学ぶためには3を、木鎮めも踏まえて物語の意味を考えてみるなら4を読んでみるのがいいでしょう。1)中村誠 1974 「樹木信仰と文芸―『三十三間堂棟由来』を中心に―」『國學院大學…

治水と樹木にどのような関係があるのか、よく分かりませんでした。

山間部では、山の木を伐り過ぎるとその保水力が低下し、鉄砲水が起こりやすくなるので、「木を伐ると洪水が起きる」との俚諺や伝承が生じることになります。中国の場合は、講義でも扱いましたが、伐採が農耕開発に結びつくことから、樹木を雨神や水神と同様…

五行説についてですが、木火土金水のなかで木だけが生物です。なぜ生物である木が元素に含まれているのでしょう。また、この五つの要素によって、人間はどのように説明されるのでしょう。身体が土であれば、キリスト教と通じるところがあって面白いと思うのですが。

五行のうち、木は生命を象徴する元素なのです。人間は五行によっては単純に何の要素と分類されず、内臓や身体の各部位がそれぞれ五行で表されます。ちなみに、『古事記』や『日本書紀』の天地開闢神話でも、人間の体は土(厳密には泥)から派生したことにな…

史料7で、なぜ始皇帝は湘山の神が娥皇と知ってなぜ激怒したのでしょうか。彼には祟りを恐れる気持ちはなかったのでしょうか。

戦国時代までの中国においては、人間がなることのできる最高位は〈王〉であり、〈帝〉は神でした。始皇帝は戦国の王たちを尽く滅ぼし、初めて全土を統一したので、人間以上の神に等しいものとして〈始皇帝〉を名乗ったのです。娥皇は尭の娘で舜の妻ですが、…

巴蜀地域には世界樹の信仰があったそうですが、当時の中国でそうした信仰があったのはこの地域だけですか。

『捜神記』で秦文公に伐採されてしまう梓も神樹であったわけで、必ずしも、樹木信仰が巴蜀地方にしか存在しなかったということではありません。しかし、華陽地域の神話に由来する『山海経』が多くの神樹を載せていることからしても、周辺より強かったことは…

なぜ囚人の服に赤が採用されているのでしょう。

私も明確な答えを持っているわけではありませんが、赤は血の色であるために生命力を象徴し、その点から避邪の機能も期待されてゆきました。また、赤色顔料としての水銀丹は、消毒・解毒の作用を持つ薬品であるとも考えられてきました。囚人の服は、その罪業…

髪型がその人の気をコントロールしていたとのことですが、徳や身分の高い人が付けていた冠や帽子は、気を閉じ込めるものだったのですか。

閉じ込めるというより、コントロールして隠しておくことが、成人男性の礼儀であったと考えるべきでしょう。生命力の溢れ出す頭髪を露出していることは、裸で往来に出ることと変わらなかったのだと考えられます。

ざんばら髪は生命エネルギーの放出状態であるとのことですが、同じことは日本でもいえるのでしょうか。

それを明記した文献は寡聞にして知りませんが、やはり中国に由来する宮廷儀礼で節分の原型である追儺式では、疫病を都城から追い出す役目をする方相氏が、ざんばら髪・四つ目の奇怪な姿で表されていました。

M君・N君の報告についての講評

M君の発表は、翻刻は概ねよくできていました。ただし、授業でも指摘しましたが、傍訓の「ヲ」「サ」などはやや特別な形をしていますので、読み方に注意してください。また、546頁6行目の「汝」が傍書であること、次行の「令」に付された「イ无」や、547頁2…

〈積善余慶〉言説の「言説」をどう理解したらいいのでしょう

discours(ディスクール)でいいでしょう。表層的内容、形式などには異同があっても、必ず易の坤卦の予言を内包する散文、程度に理解しておいてください。この場合、体制的構造を強化するというより、構造に組み込まれたテクストに訴えて新たな現実を構築す…

『春秋』には予言が含まれていると考えられていたとのことですが、それでは作者とされた孔子も予言をしていたのでしょうか。

孔子自身は予言をしなかったでしょう。彼は晩年『周易』も学んだようですが、あくまで宇宙の変化する理法を研究したものと考えられます。しかし、「快力乱神を語らず、で、孔子は論理的なものしか扱わなかった」という近代的解釈には反対です。儒教のなかで…

街などでみかける占い師のような人は、中国にも存在したのでしょうか。手の中に宇宙を作り出すとありますが、それを道端で行うのには不信感があります。

『史記』日者列伝によると、都市には、ト占を生業とする者が店を出す場所があったようです。戦国末期の「包山楚簡」からは、クライアントの将来の災禍を占いその対処法を提示する専門ト占集団の存在が推測されており、公以外のところでもト占職能者が活躍し…

筮儀を行う回数は明確に決まっていたのか。

殷代の亀トは、甲骨ト辞によると、例えば五回占って最もよい結果を採る、といった方法が実践されていました。殷代の末期には、三人で亀トをなし多数決で結果を決める三ト制が始まりますが、この方法は『尚書』洪範にも明記されて易へ受け継がれたようです。…

珂瑠皇子の帝王教育のため「善言」が集積されたとありましたが、具体的にどのような教育が行われたのでしょう。そのなかには占いも含まれたのでしょうか。

『善言』が関係するのは、中国的(儒教的)君主観に裏打ちされた徳を高めるための教育でしょう。善言とは仁・義・礼・智・信の五常、孝や忠といった儒教的美徳の表れた発言でしょうから、それらを勉強することで背景となる社会秩序、君主の役割を理解し、徳…

「前追」は、平安時代にあった「先駆け」と関係あるのでしょうか。声を発して邪気を払うという点に共通性がある気がするのですが。

根っこは同じでしょう。天皇の行幸の際に犬の吠えるまねをして邪気を払った、隼人の狗吠(くはい)あたりがオリジンでしょうか。

以前に観た歌舞伎の『三十三間堂棟木由来』で、木霊と人間との間にできた子供が、母である棟木を引くというシーンがありました。これはどのように読み解くべきでしょうか。

これは、新年に扱う木霊婚姻譚の典型で、その成り立ち・意味についてはこれから詳しく考察します。「引く」ことには非常に重要な意味があります。