2016-04-01から1ヶ月間の記事一覧
授業でもお話ししましたが、大理の仏教密宗は、東アジア仏教のなかでも特殊なものです。観音信仰は、アジアでは『法華経』、そしてその一部をなす観世音菩薩普門品など、所依経典の漢訳を通じて変遷してゆき、その効験に応じて説話も作成され、日本では『妙…
もちろん、批判はあったでしょう。ただし、在来宗教の場合は文字記録として残らないので、伝わっていないのだと思います。しかし、例えば『南詔図伝』に描かれた梵僧への迫害が、在来宗教を信仰していた人々の、仏教に対する批判を表現している可能性もあり…
いわゆる冥界訪問譚の関係でなら、一度死んだ高僧が七日経って生き返る、蘇生するといった伝承は多く残っています。しかし、『南詔図伝』の梵僧のように、殺害されバラバラにされたものが蘇生する、といった展開はあまり聞きません。日本では、神異僧のイメ…
やはりありますね。臨終の際の芳香・紫雲表現は新しいものなので、『梁高僧伝』『唐高僧伝』にはあまりみえず、『宋高僧伝』になって多少出てきます。例えば、同書巻7義解篇/周魏府観音院智佺伝には、「其年十一月十一日に至りて、奄に終る。木塔の挙高三…
「4のなかにまた4がある」というのは抽象的、暗号的な表現ですが、この「予言」のなかでは、同泰寺の火災が4月の、さらに14日に起きたことを指し示しています。
ありました。曇鸞が『仙経』を受け取った陶弘景は、江南にて茅山仏教を大成してゆきますが、その教えのなかには、仏教の輪廻転生の考え方、そのプロセスを通じて自身の身体を清浄化してゆき、神仙へ至ることなどが組み込まれています。また彼は、仏からの夢…
宝誌が菩薩の真形を現すイメージは、もともとは、人間としての姿に菩薩の姿が重なるといった印象であったようです。それが北宋の頃を画期に、面皮を引きはがす様子に変わってゆく。そのオリジナルとしては、アニミズム社会で動物の皮が、人間と獣を区別する…
授業でもお話ししましたが、民族社会では、人間のエネルギーが宿る場所として頭を重視します。それゆえに頭を刈り、場合によっては摂取する首狩りの習俗が存在するわけです。西南少数民族の間では、頭部を豪華に飾り立てる風習がよくみられます。一方で僧侶…
宝誌の初期イメージは、身体的には老いさらばえた老人の印象で造形されています。一方、『南詔図伝』では、きらびやかな法衣、袈裟を身に纏った立派な体躯の梵像として描かれています。これは、国家仏教の守護神としての梵僧が、貧相な恰好では済まなかった…
もともと、六詔を生み出してゆく彝族の社会が信仰していたのは、木で作られた柱であったと思います。洱海地域が交易上重要な位置をなし、吐蕃や唐が接近して国家形成に至るプロセスを考慮すると、そのなかで立柱の金属化が行われたのでしょう。日本でも弥生…
『南詔図伝』の描き方をみると、六蒙、そして細奴羅や邏盛など南詔国王家の人々、そして梵僧、仏教に帰依した人々は白色系で書かれているのに対し、仏教に帰依せず梵僧を迫害した人々は黒褐色系の彩色を施されています。ここにはやはり、意図的な色彩の使い…
チベット仏教も、南詔の仏教とほぼ同じような時期に形成されてゆきます。吐蕃は西域やインドにも近しいので、直接インドから高僧が招かれ、大蔵経の翻訳なども進められて仏教文化が栄えました。現在でもラマ教という名前が残り、ダライ=ラマなどは有名です…
2回目の講義でもお話ししましたが、南詔は吐蕃と唐にとって、西域や東南アジア、インドとの交易ルート上重要な位置にあります。7〜8世紀に南詔が国家として展開したとき、すでに唐には仏教文化が栄えていました。南詔は驃やインドとの関係から、最新の仏…
保護は責任感の表れである一方で、やはり、人間の力が自然の力を上回ったという優越、傲慢がどこかで入り込むということでしょうね。一般的には近代の産業革命が当てはめられるでしょうが、実は古代においても、自然環境の開発を進めるためにその象徴である…
渡来人とは、単に日本列島へ渡来してきた人々、という程度の意味しかありません。狭義には、5世紀後半以降、大陸や朝鮮の知識・技術を担って訪れ、日本列島における古代国家建設に貢献した人々を指すこともありますが、現在では上記の使い方で用いるのが一…
古気温曲線はあくまで相対的なもので、絶対温度を計算することはできません。また、計測した地域の傾向は把握できますが、気温は局所的な要因も大きく関係しますので、おおよその傾向以外正確には分からないのが現状です。温暖化と寒冷化が繰り返し訪れる弥…
東北や北海道で稲作が可能になったのは、絶えざる品種改良によって、南方品種のイネを寒冷地対応に変えていったためです。品種改良の歴史は平安時代から始まりますが、現在の東北・北陸の米所を生み出してゆく画期になったのは、近代の「陸羽132号」という品…
青苗の状態で海を渡ってくることは考えにくいので、やはり種籾であったと理解してよいでしょう。
そうですね、年代が遡る可能性が高いというだけで、4期区分については変更ありません。
それはありえたでしょう。しかし、戦争は双方にとって大きな被害を生み、生存を維持するうえでは効率的ではないので、衝突が避けられる場合はあえて戦闘しないのが普通であったものと思われます。
現在の狩猟民においてもそうなのですが、狩猟という共同作業によって得た肉は、それに関わった人々の間で平等に分配され、富の偏りが生じないようにする種々の規則が存在するのです。狩猟採集社会においては、あらゆる作業が集団で行われ、その分担も専門的…
ウッドサークルは、ストーンサークルのような墓由来の祭場ではありません。まず、現在みつかっている北陸地域の幾つかの以降でも、残っているのは柱穴、もしくは柱の下部の一部だけで、全体像がまったく分かっていないのです。つまり、情報に何らかの構造物…
詳細が分からないのですが、恐らく「代々」の方は、家の墓に入りきらなくなったお骨をまとめて納めたものか、あるいは逆にもともとの古い墓で墓室が一杯になってしまい、最近の死者のみ別の墓に収骨されるようになったということでしょう。
縄文時代の環状墓域は1万年前の話ですので、現在の家単位、個人単位の墓のあり方と直接的には結びつきません。歴史時代には、古代・中世時期のように、遺棄葬といって墓を必要としない葬送文化も存在しました。現在のような墓が作られるようになったのは、…
ははあ、確かに。現在の墓石は、古代から中世にかけて建てられた仏教の五輪塔、多宝塔などをモチーフしている場合が多いです。しかし、この仏塔=ストゥーパは、もともとは巨大な伏鉢型の構造物が塔をいただいたもので、女性象徴プラス男性象徴であるとみな…
逆に、死に対する強烈な怖れがあったからこそ、再生への転換が願われたとみた方がよいでしょう。自然の生命エネルギーの支えがなければ、人間などすぐに失われてしまう。そうした認識が、生を希求する縄文文化の核をなしていったのだと考えられます。
時間の関係できちんと説明できなかったのですが、縄文時代の前期から中期にかけては、巨大集落が離合集散して小集落となり、やがてまた集合して大規模集落が作られてゆく段階で、墓に納められていた骨を集めて合葬するという習俗が発生するのです。集落を離…
歴史過程の偶然の積み重ねもありますので、うまく説明をするには限界がありますが、ひとつには縄文時代の温暖湿潤な気候状態があり、西日本は人間の適切な活動がなされるには気温が高すぎたといえるかもしれません。東日本の方が、植生的な意味でも豊かであ…
上記のようなものの見方では、土偶が一部を損壊されている場合しか説明ができませんので、否定はできませんが、非常に有効範囲の狭い学説となります。発想の根本は、自分の病気の箇所をヒトガタなり墨書土器なりに移して取り除くという修祓でしょうが、これ…